2008年11月6日木曜日

百五十五

 小林と会見の場所は、東京で一番|賑《にぎ》やかな大通りの中ほどを、ちょっと横へ切れた所にあった。向うから宅《うち》へ誘いに寄って貰《もら》う不快を避けるため、またこっちで彼の下宿を訪《たず》ねてやる面倒を省《はぶ》くため、津田は時間をきめてそこで彼に落ち合う手順にしたのである。
 その時間は彼が電車に乗っているうちに過ぎてしまった。しかし着物を着換えて、お延から金を受け取って、少しの間|坐談《ざだん》をしていたために起ったこの遅刻は、何らの痛痒《つうよう》を彼に与えるに足りなかった。有体《ありてい》に云えば、彼は小林に対して克明に律義《りちぎ》を守る細心の程度を示したくなかった。それとは反対に、少し時間を後《おく》らせても、放縦《ほうしょう》な彼の鼻柱を挫《くじ》いてやりたかった。名前は送別会だろうが何だろうが、その実金をやるものと貰うものとが顔を合せる席にきまっている以上、津田はたしかに優者であった。だからその優者の特権をできるだけ緊張させて、主客《しゅかく》の位地《いち》をあらかじめ作っておく方が、相手の驕慢《きょうまん》を未前に防ぐ手段として、彼には得策であった。利害を離れた単なる意趣返しとしてもその方が面白かった。
 彼はごうごう鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによるとこれでもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考えた。もしあまり早く行き着いたら、一通り夜店でも素見《ひやか》して、慾《よく》の皮で硬く張った小林の予期を、もう少し焦《じ》らしてやろうとまで思案した。
 停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた燭光《あかり》の数は、夜の都の活動を目覚しく物語るに充分なくらい、右往左往へちらちらした。彼はその間に立って、目的の横町へ曲る前に、これらの燭光《あかり》と共に十分ぐらい動いて歩こうか歩くまいかと迷った。ところが顔の先へ押し付けられた夕刊を除《よ》けて、四辺《あたり》を見廻した彼は、急におやと思わざるを得なかった。
 もうだいぶ待ち草臥《くたび》れているに違ないと仮定してかかった小林は、案外にも向う側に立っていた。位地《いち》は津田の降りた舗床《ペーヴメント》と車道を一つ隔《へだ》てた四つ角の一端なので、二人の視線が調子よく合わない以上、夜と人とちらちらする燭光が、相互の認識を遮《さえ》ぎる便利があった。のみならず小林は真面《まとも》にこっちを向いていなかった。彼は津田のまだ見知らない青年と立談《たちばなし》をしていた。青年の顔は三分の二ほど、小林のは三分の一ほど、津田の方角から見えるだけなので、彼はほぼ露見の恐れなしに、自分の足の停《と》まった所から、二人の模様を注意して観察する事ができた。二人はけっして余所見《よそみ》をしなかった。顔と顔を向き合せたまま、いつまでも同じ姿勢を崩《くず》さない彼らの体《てい》が、ありありと津田の眼に映るにつれて、真面目《まじめ》な用談の、互いの間に取り換わされている事は明暸《めいりょう》に解《わか》った。
 二人の後《うしろ》には壁があった。あいにく横側に窓が付いていないので、強い光はどこからも射さなかった。ところへ南から来た自働車が、大きな音を立てて四つ角を曲ろうとした。その時二人は自働車の前側に装置してある巨大な灯光を満身に浴びて立った。津田は始めて青年の容貌《ようぼう》を明かに認める事ができた。蒼白《あおじろ》い血色は、帽子の下から左右に垂れている、幾カ月となく刈《か》り込まない※[#「參+毛」、第3水準1-86-45]々《さんさん》たる髪の毛と共に、彼の視覚を冒《おか》した。彼は自働車の過ぎ去ると同時に踵《きびす》を回《めぐ》らした。そうして二人の立っている舗道《ほどう》を避けるように、わざと反対の方向へ歩き出した。
 彼には何の目的もなかった。はなやかに電灯で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、ただ都会的で美くしいというだけに過ぎなかった。商買が違うにつれて品物が変化する以外に、何らの複雑な趣《おもむき》は見出《みいだ》されなかった。それにもかかわらず彼は到《いた》る処に視覚の満足を味わった。しまいに或|唐物屋《とうぶつや》の店先に飾ってあるハイカラな襟飾《ネクタイ》を見た時に、彼はとうとうその家《うち》の中へ入って、自分の欲しいと思うものを手に取って、ひねくり廻したりなどした。
 もうよかろうという時分に、彼は再び取って返した。舗道の上に立っていた二人の影ははたしてどこかへ行ってしまった。彼は少し歩調を早めた。約束の家の窓からは暖かそうな光が往来へ射していた。煉瓦作《れんがづく》りで窓が高いのと、模様のある玉子色の布《きぬ》に遮《さえ》ぎられて、間接に夜《よ》の中へ光線が放射されるので、通《とお》り際《ぎわ》に見上げた津田の頭に描き出されたのは、穏やかな瓦斯煖炉《ガスだんろ》を供えた品《ひん》の好い食堂であった。
 大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、むしろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。津田がそこを知り出したのもつい近頃であった。長い間|仏蘭西《フランス》とかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨《うま》いのだと友人に教えられたのが原《もと》で、四五遍食いに来た因縁《いんねん》を措《お》くと、小林をそこへ招き寄せる理由は他に何にもなかった。
 彼は容赦《ようしゃ》なく扉《とびら》を押して内へ入った。そうしてそこに案のごとく少し手持無沙汰《てもちぶさた》ででもあるような風をして、真面目《まじめ》な顔を夕刊か何かの前に向けている小林を見出した。

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