目的の温泉場へ立つ前の津田は、既定されたプログラムの順序として、まず小林に会わなければならなかった。約束の日が来た時、お延から入用《いりよう》の金を受け取った彼は笑いながら細君を顧みた。
「何だか惜しいな、あいつにこれだけ取られるのは」
「じゃ止《よ》した方が好いわ」
「おれも止したいよ」
「止したいのになぜ止せないの。あたしが代りに行って断って来て上げましょうか」
「うん、頼んでもいいね」
「どこであの人にお逢《あ》いになるの。場所さえおっしゃれば、あたし行って上げるわ」
お延が本気かどうかは津田にも分らなかった。けれどもこういう場合に、大丈夫だと思ってつい笑談《じょうだん》に押すと、押したこっちがかえって手古摺《てこず》らせられるくらいの事は、彼に困難な想像ではなかった。お延はいざとなると口で云った通りを真面《まとも》に断行する女であった。たとい違約であろうとあるまいと、津田を代表して、小林を撃退する役割なら進んで引き受けないとも限らなかった。彼は危険区域へ踏み込まない用心をして、わざと話を不真面目《ふまじめ》な方角へ流してしまった。
「お前は見かけに寄らない勇気のある女だね」
「これでも自分じゃあると思ってるのよ。けれどもまだ出した例《ためし》がないから、実際どのくらいあるか自分にも分らないわ」
「いやお前に分らなくっても、おれにはちゃんと分ってるから、それでたくさんだよ。女のくせにそうむやみに勇気なんか出された日にゃ、亭主が困るだけだからね」
「ちっとも困りゃしないわ。御亭主のために出す勇気なら、男だって困るはずがないじゃないの」
「そりゃありがたい場合もたまには出て来るだろうがね」と云った津田には固《もと》より本気に受け答えをするつもりもなかった。「今日《こんにち》までそれほど感服に値する勇気を拝見した覚《おぼえ》もないようだね」
「そりゃその通りよ。だってちっとも外へ出さずにいるんですもの。これでも内側へ入って御覧なさい。なんぼあたしだってあなたの考えていらっしゃるほど太平じゃないんだから」
津田は答えなかった。しかしお延はやめなかった。
「あたしがそんなに気楽そうに見えるの、あなたには」
「ああ見えるよ。大いに気楽そうだよ」
この好い加減な無駄口の前に、お延は微《かす》かな溜息《ためいき》を洩《も》らした後で云った。
「つまらないわね、女なんて。あたし何だって女に生れて来たんでしょう」
「そりゃおれにかけ合ったって駄目《だめ》だ。京都にいるお父さんかお母さんへ尻《しり》を持ち込むよりほかに、苦情の持ってきどころはないんだから」
苦笑したお延はまだ黙らなかった。
「いいから、今に見ていらっしゃい」
「何を」と訊《き》き返した津田は少し驚ろかされた。
「何でもいいから、今に見ていらっしゃい」
「見ているが、いったい何だよ」
「そりゃ実際に問題が起って来なくっちゃ云えないわ」
「云えないのはつまりお前にも解《わか》らないという意味なんじゃないか」
「ええそうよ」
「何だ下らない。それじゃまるで雲を掴《つか》むような予言だ」
「ところがその予言が今にきっとあたるから見ていらっしゃいというのよ」
津田は鼻の先でふんと云った。それと反対にお延の態度はだんだん真剣に近づいて来た。
「本当よ。何だか知らないけれども、あたし近頃|始終《しじゅう》そう思ってるの、いつか一度このお肚《なか》の中にもってる勇気を、外へ出さなくっちゃならない日が来るに違《ちがい》ないって」
「いつか一度? だからお前のは妄想《もうぞう》と同《おん》なじ事なんだよ」
「いいえ生涯《しょうがい》のうちでいつか一度じゃないのよ。近いうちなの。もう少ししたらのいつか一度なの」
「ますます悪くなるだけだ。近き将来において蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ敵《かな》わない」
「いいえ、あなたのためによ。だから先刻《さっき》から云ってるじゃないの、夫のために出す勇気だって」
真面目《まじめ》なお延の顔を見ていると、津田もしだいしだいに釣り込まれるだけであった。彼の性格にはお延ほどの詩がなかった。その代り多少気味の悪い事実が遠くから彼を威圧していた。お延の詩、彼のいわゆる妄想は、だんだん活躍し始めた。今まで死んでいるとばかり思って、弄《いじく》り廻していた鳥の翅《つばさ》が急に動き出すように見えた時、彼は変な気持がして、すぐ会話を切り上げてしまった。
彼は帯の間から時計を出して見た。
「もう時間だ、そろそろ出かけなくっちゃ」
こう云って立ち上がった彼の後《あと》を送って玄関に出たお延は、帽子《ぼうし》かけから茶の中折を取って彼の手に渡した。
「行っていらっしゃい。小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい」
津田は振り向かないで夕方の冷たい空気の中に出た。
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