2008年11月6日木曜日

百五十三

 津田の辛防《しんぼう》しなければならない手術後の経過は良好であった。というよりもむしろ順当に行った。五日目が来た時、医者は予定通り彼のために全部のガーゼを取り替えてくれた後で、それを保証した。
「至極《しごく》好い具合です。出血も口元だけです。内部《なか》の方は何ともありません」
 六日目にも同じ治療法が繰り返された。けれども局部は前日よりは健全になっていた。
「出血はどうです。まだ止《と》まりませんか」
「いや、もうほとんど止まりました」
 出血の意味を解し得ない津田は、この返事の意味をも解し得なかった。好い加減に「もう癒《なお》りました」という解釈をそれに付けて大変喜こんだ。しかし本式の事実は彼の考える通りにも行かなかった。彼と医者の間に起った一場《いちじょう》の問答がその辺の消息を明らかにした。
「これが癒り損《そく》なったらどうなるんでしょう」
「また切るんです。そうして前よりも軽く穴が残るんです」
「心細いですな」
「なに十中八九は癒るにきまってます」
「じゃ本当の意味で全癒というと、まだなかなか時間がかかるんですね」
「早くて三週間遅くて四週間です」
「ここを出るのは?」
「出るのは明後日《みょうごにち》ぐらいで差支えありません」
 津田はありがたがった。そうして出たらすぐ温泉に行こうと覚悟した。なまじい医者に相談して転地を禁じられでもすると、かえって神経を悩ますだけが損だと打算した彼はわざと黙っていた。それはほとんど平生の彼に似合わない粗忽《そこつ》な遣口《やりくち》であった。彼は甘んじてこの不謹慎を断行しようと決心しながら、肚《はら》の中ですでに自分の矛盾を承知しているので、何だか不安であった。彼は訊《き》かないでもいい質問を医者にかけてみたりした。
「括約筋《かつやくきん》を切り残したとおっしゃるけれども、それでどうして下からガーゼが詰《つ》められるんですか」
「括約筋はとば口にゃありません。五分ほど引っ込んでます。それを下から斜《はす》に三分ほど削《けず》り上げた所があるのです」
 津田はその晩から粥《かゆ》を食い出した。久しく麺麭《パン》だけで我慢していた彼の口には水ッぽい米の味も一種の新らしみであった。趣味として夜寒《よさむ》の粥を感ずる能力を持たない彼は、秋の宵《よい》の冷たさを対照に置く薄粥《うすがゆ》の暖かさを普通の俳人以上に珍重して啜《すす》る事ができた。
 療治の必要上、長い事|止《と》められていた便の疎通を計るために、彼はまた軽い下剤を飲まなければならなかった。さほど苦《く》にもならなかった腹の中が軽くなるに従って、彼の気分もいつか軽くなった。身体《からだ》の楽になった彼は、寝転《ねこ》ろんでただ退院の日を待つだけであった。
 その日も一晩明けるとすぐに来た。彼は車を持って迎いに来たお延の顔を見るや否や云った。
「やっと帰れる事になった訳かな。まあありがたい」
「あんまりありがたくもないでしょう」
「いやありがたいよ」
「宅《うち》の方が病院よりはまだましだとおっしゃるんでしょう」
「まあその辺かも知れないがね」
 津田はいつもの調子でこう云った後で、急に思い出したように付け足した。
「今度はお前の拵《こしら》えてくれた※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍《どてら》で助かったよ。綿が新らしいせいか大変着心地が好いね」
 お延は笑いながら夫を冷嘲《ひやか》した。
「どうなすったの。なんだか急にお世辞《せじ》が旨《うま》くおなりね。だけど、違ってるのよ、あなたの鑑定は」
 お延は問題の※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍を畳みながら、新らしい綿ばかりを入れなかった事実を夫に白状した。津田はその時着物を着換えていた。絞《しぼ》りの模様の入った縮緬《ちりめん》の兵児帯《へこおび》をぐるぐる腰に巻く方が、彼にはむしろ大事な所作《しょさ》であった。それほど軽く※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍の中味を見ていた彼の愛嬌《あいきょう》は、正直なお延の返事を待ち受けるのでも何でもなかった。彼はただ「はあそうかい」と云ったぎりであった。
「お気に召したらどうぞ温泉へも持っていらしって下さい」
「そうして時々お前の親切でも思い出すかな」
「しかし宿屋で貸してくれる※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍の方がずっとよかったり何かすると、いい恥っ掻きね、あたしの方は」
「そんな事はないよ」
「いえあるのよ。品質《もの》が悪いとどうしても損ね、そういう時には。親切なんかすぐどこかへ飛んでっちまうんだから」
 無邪気なお延の言葉は、彼女の意味する通りの単純さで津田の耳へは響かなかった。そこには一種のアイロニーが顫動《せんどう》していた。※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍《どてら》は何かの象徴《シンボル》であるらしく受け取れた。多少気味の悪くなった津田は、お延に背中を向けたままで、兵児帯《へこおび》の先をこま結びに結んだ。
 やがて二人は看護婦に送られて玄関に出ると、すぐそこに待たしてある車に乗った。
「さよなら」
 多事な一週間の病院生活は、この一語でようやく幕になった。

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