2008年11月6日木曜日

百五十二

 後は話が存外楽に進行したので、ほどなく第二の妥協が成立した。小林に対する友誼《ゆうぎ》を満足させるため、かつはいったん約束した言責《げんせき》を果すため、津田はお延の貰《もら》って来た小切手の中《うち》から、その幾分を割《さ》いて朝鮮行の贐《はなむけ》として小林に贈る事にした。名義は固より貸すのであったが、相手に返す腹のない以上、それを予算に組み込んで今後の的にする訳には行かないので、結果はつまりやる事になったのである。もちろんそこへ行き着くまでにはお延にも多少の難色があった。小林のような横着《おうちゃく》な男に金銭を恵むのはおろか、ちゃんとした証書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸のどの隅《すみ》からも出るはずはなかった。のみならず彼女はややともすると、強《し》いてそれを断行しようとする夫の裏側を覗《のぞ》き込むので、津田はそのたびに少なからず冷々《ひやひや》した。
「あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」
 こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。津田が人情|一点張《いってんばり》でそれを相手にする気色《けしき》を見せないと、彼女はもう一歩先の事まで云った。
「だから訳をおっしゃいよ。こういう訳があるから、こうしなければ義理が悪いんだという事情さえ明暸《めいりょう》になれば、あの小切手をみんな上げても構わないんだから」
 津田にはここが何より大事な関所なので、どうしてもお延を通させる訳に行かなかった。彼は小林を弁護する代りに、二人の過去にある旧《ふる》い交際と、その交際から出る懐《なつ》かしい記憶とを挙げた。懐かしいという字を使って非難された時には、仕方なしに、昔の小林と今の小林の相違にまで、説明の手を拡《ひろ》げた。それでも腑《ふ》に落ちないお延の顔を見た時には、急に談話の調子を高尚にして、人道《じんどう》まで云々した。しかし彼の口にする人道はついに一個の功利説《こうりせつ》に帰着するので、彼は吾《われ》知らず自分の拵《こしら》えた陥穽《かんせい》に向って進んでいながら気がつかず、危うくお延から足を取られて、突き落されそうになる場合も出て来た。それを代表的な言葉でごく簡単に例で現わすと下《しも》のようになった。
「とにかく困ってるんだからね、内地にいたたまれずに、朝鮮まで落ちて行こうてんだから、少しは同情してやってもよかろうじゃないか。それにお前はあいつの人格をむやみに攻撃するが、そこに少し無理があるよ。なるほどあいつはしようのない奴《やつ》さ。しようのない奴には違《ちがい》ないけれども、あいつがこうなった因《おこ》りをよく考えて見ると、何でもないんだ。ただ不平だからだ。じゃなぜ不平だというと、金が取れないからだ。ところがあいつは愚図《ぐず》でもなし、馬鹿でもなし、相当な頭を持ってるんだからね。不幸にして正則の教育を受けなかったために、ああなったと思うと、そりゃ気の毒になるよ。つまりあいつが悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。要するに不幸な人なんだ」
 これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼はついにそこで止《とど》まる事ができないのである。
「それにまだこういう事も考えなければならないよ。ああ自暴糞《やけくそ》になってる人間に逆《さか》らうと何をするか解《わか》らないんだ。誰とでも喧嘩《けんか》がしたい、誰と喧嘩をしても自分の得《とく》になるだけだって、現にここへ来て公言して威張《えば》ってるんだからね、実際始末に了《お》えないよ。だから今もしおれがあいつの要求を跳《は》ねつけるとすると、あいつは怒るよ。ただ怒るだけならいいが、きっと何かするよ。復讐《かたきうち》をやるにきまってるよ。ところがこっちには世間体《せけんてい》があり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵《かな》いっこないんだ。解ったかね」
 ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ崩《くず》れてしまう。しかしそれにしても、ここで切り上げさえすれば、お延は黙って点頭《うなず》くよりほかに仕方がないのである。ところが彼はまだ先へ出るのである。
「それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したり、または一般の金持を悪口《あっこう》するだけならいいがね。あいつのは、そうじゃないんだ、もっと実際的なんだ。まず最初に自分の手の届く所からだんだんに食い込んで行こうというんだ。だから一番災難なのはこのおれだよ。どう考えてもここでおれ相当の親切を見せて、あいつの感情を美くして、そうして一日も早く朝鮮へ立って貰《もら》うのが上策なんだ。でないといつどんな目に逢《あ》うか解ったもんじゃない」
 こうなるとお延はどうしてもまた云いたくなるのである。
「いくら小林が乱暴だって、あなたの方にも何かなくっちゃ、そんなに怖《こわ》がる因縁《いんねん》がないじゃありませんか」
 二人がこんな押問答をして、小切手の片をつけるだけでも、ものの十分はかかった。しかし小林の方がきまると共に、残りの所置はすぐついた。それを自分の小遣《こづかい》として、任意に自分の嗜慾《しよく》を満足するという彼女の条件は直《ただ》ちに成立した。その代り彼女は津田といっしょに温泉へ行かない事になった。そうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるという案に同意させられた。
 うそ寒《さむ》の宵《よい》に、若い夫婦間に起った波瀾《はらん》の消長はこれでようやく尽きた。二人はひとまず別れた。

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