2008年11月7日金曜日

百十五

 下から上《あが》って来た医者には、その時の津田がいかにも退屈そうに見えた。顔を合せるや否や彼は「いかがです」と訊《き》いた後で、「もう少しの我慢です」とすぐ慰めるように云った。それから彼は津田のためにガーゼを取り易えてくれた。
「まだ創口《きずぐち》の方はそっとしておかないと、危険ですから」
 彼はこう注意して、じかに局部を抑《おさ》えつけている個所を少し緩《ゆる》めて見たら、血が煮染《にじ》み出したという話を用心のためにして聴《き》かせた。
 取り易《か》えられたガーゼは一部分に過ぎなかった。要所を剥《は》がすと、血が迸《ほとば》しるかも知れないという身体《からだ》では、津田も無理をして宅《うち》へ帰る訳に行かなかった。
「やッぱり予定通りの日数《にっすう》は動かずにいるよりほかに仕方がないでしょうね」
 医者は気の毒そうな顔をした。
「なに経過次第じゃ、それほど大事を取るにも及ばないんですがね」
 それでも医者は、時間と経済に不足のない、どこから見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。
「別に大した用事がお有《あり》になる訳でもないんでしょう」
「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」
「はあ。――しかしもう直《じき》です。もう少しの辛防《しんぼう》です」
 これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだ込《こ》み合《あ》わないためか、そこへ坐《すわ》って二三の雑談をした。中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めている頃に起ったという一口話《ひとくちばなし》が、思わず津田を笑わせた。看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑《けんぎ》をかけて、是非その看護婦を殴《なぐ》らせろと、医局へ逼《せま》った人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽《こっけい》であった。こういう性質《たち》の人と正反対に生みつけられた彼は、そこに馬鹿らしさ以外の何物をも見出《みいだ》す事ができなかった。平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気を奪《と》られた。そうしてその裏側へ暗《あん》に自分の長所を点綴《てんてつ》して喜んだ。だから自分の短所にはけっして思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。
 医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に括《くく》りつけられなければならない現在の自分を悲観したくなった。気のせいか彼にはその現在が大変貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。
 彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。
 彼はお延の置いて行った書物の中《うち》から、その一冊を抽《ぬ》いた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯《うな》ずかせるような趣《おもむき》がそこここに見えた。不幸にして彼は諧謔《ヒューモア》を解する事を知らなかった。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれほど応《こた》えなかった。頭にさえ呑《の》み込めないのも続々出て来た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見つけようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然|下《しも》のようなのが彼の眼に触れた。
「娘の父が青年に向って、あなたは私《わたし》の娘を愛しておいでなのですかと訊《き》いたら、青年は、愛するの愛さないのっていう段じゃありません、お嬢さんのためなら死のうとまで思っているんです。あの懐《なつ》かしい眼で、優しい眼遣《めづか》いをただの一度でもしていただく事ができるなら、僕はもうそれだけで死ぬのです。すぐあの二百尺もあろうという崖《がけ》の上から、岩の上へ落ちて、めちゃくちゃな血だらけな塊《かたま》りになって御覧に入れます。と答えた。娘の父は首を掉《ふ》って、実を云うと、私も少し嘘《うそ》を吐《つ》く性分《しょうぶん》だが、私の家《うち》のような少人数《こにんず》な家族に、嘘付《うそつき》が二人できるのは、少し考えものですからね。と答えた」
 嘘吐《うそつき》という言葉がいつもより皮肉に津田を苦笑させた。彼は腹の中で、嘘吐な自分を肯《うけ》がう男であった。同時に他人の嘘をも根本的に認定する男であった。それでいて少しも厭世的《えんせいてき》にならない男であった。むしろその反対に生活する事のできるために、嘘が必要になるのだぐらいに考える男であった。彼は、今までこういう漠然《ばくぜん》とした人世観の下《もと》に生きて来ながら、自分ではそれを知らなかった。彼はただ行《おこな》ったのである。だから少し深く入り込むと、自分で自分の立場が分らなくなるだけであった。
「愛と虚偽」
 自分の読んだ一口噺《ひとくちばなし》からこの二字を暗示された彼は、二つのものの関係をどう説明していいかに迷った。彼は自分に大事なある問題の所有者であった。内心の要求上是非共それを解決しなければならない彼は、実験の機会が彼に与えられない限り、頭の中でいたずらに考えなければならなかった。哲学者でない彼は、自身に今まで行って来た人世観をすら、組織正しい形式の下に、わが眼の前に並べて見る事ができなかったのである。

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