2008年11月7日金曜日

百十四

 前夜よく寝られなかった疲労の加わった津田はその晩案外|気易《きやす》く眠る事ができた。翌日《あくるひ》もまた透《す》き通るような日差《ひざし》を眼に受けて、晴々《はればれ》しい空気を篏硝子《はめガラス》の外に眺めた彼の耳には、隣りの洗濯屋で例の通りごしごし云わす音が、どことなしに秋の情趣を唆《そそ》った。
「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」
 洗濯屋の男は、俗歌を唄《うた》いながら、区切《くぎり》区切へシッシッシという言葉を入れた。それがいかにも忙がしそうに手を働かせている彼らの姿を津田に想像させた。
 彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へ上《のぼ》って、その白いものを隙間《すきま》なく秋の空へ広げた。ここへ来てから、日ごとに繰り返される彼らの所作《しょさ》は単調であった。しかし勤勉であった。それがはたして何を意味しているか津田には解《わか》らなかった。
 彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。彼は吉川夫人の姿を憶《おも》い浮べた。彼の未来、それを眼の前に描き出すのは、あまりに漠然《ばくぜん》過ぎた。それを纏《まと》めようとすると、いつでも吉川夫人が現われた。平生から自分の未来を代表してくれるこの焦点にはこの際特別な意味が附着していた。
 一にはこの間訪問した時からの引《ひっ》かかりがあった。その時二人の間に封じ込められたある問題を、ぽたりと彼の頭に点じたのは彼女であった。彼にはその後《あと》を聴《き》くまいとする努力があった。また聴こうとする意志も動いた。すでに封を切ったものが彼女であるとすれば、中味を披《ひら》く権利は自分にあるようにも思われた。
 二には京都の事が気になった。軽重《けいちょう》を別にして考えると、この方がむしろ急に逼《せま》っていた。一日も早く彼女に会うのが得策のようにも見えた。まだ四五日はどうしても動く事のできない身体《からだ》を持ち扱った彼は、昨日《きのう》お延の帰る前に、彼女を自分の代りに夫人の所へやろうとしたくらいであった。それはお延に断られたので、成立しなかったけれども、彼は今でもその方が適当な遣口《やりくち》だと信じていた。
 お延がなぜこういう用向《ようむき》を帯びて夫人を訪《たず》ねるのを嫌《きら》ったのか、津田は不思議でならなかった。黙っていてもそんな方面へ出入《でいり》をしたがる女のくせに。と彼はその時考えた。夫人の前へ出られるためにわざと用事を拵《こし》らえて貰《もら》ったのと同じ事だのにとまで、自分の動議を強調して見た。しかしどうしても引き受けたがらないお延を、たって強《し》いる気もまたその場合の彼には起らなかった。それは夫婦打ち解けた気分にも起因していたが、一方から見ると、またお延の辞退しようにも関係していた。彼女は自分が行くと必ず失敗するからと云った。しかしその理由を述べる代りに、津田ならきっと成効《せいこう》するに違《ちがい》ないからと云った。成効するにしても、病院を出た後《あと》でなければ会う訳に行かないんだから、遅くなる虞《おそ》れがあると津田が注意した時、お延はまた意外な返事を彼に与えた。彼女は夫人がきっと病院へ見舞に来るに違ないと断言した。その時機を利用しさえすれば、一番自然にまた一番簡単に事が運ぶのだと主張した。
 津田は洗濯屋の干物《ほしもの》を眺めながら、昨日《きのう》の問答をこんな風に、それからそれへと手元へ手繰《たぐ》り寄せて点検した。すると吉川夫人は見舞に来てくれそうでもあった。また来てくれそうにもなかった。つまりお延がなぜ来る方をそう堅く主張したのか解らなくなった。彼は芝居の食堂で晩餐《ばんさん》の卓に着いたという大勢を眼先に想像して見た。お延と吉川夫人の間にどんな会話が取り換わされたかを、小説的に組み合せても見た。けれどもその会話のどこからこの予言が出て来たかの点になると、自分に解らないものとして投げてしまうよりほかに手はなかった。彼はすでに幾分の直覚、不幸にして天が彼に与えてくれなかった幾分の直覚を、お延に許していた。その点でいつでも彼女を少し畏《おそ》れなければならなかった彼には、杜撰《ずざん》にそこへ触れる勇気がなかった。と同時に、全然その直覚に信頼する事のできない彼は、何とかしてこっちから吉川夫人を病院へ呼び寄せる工夫はあるまいかと考えた。彼はすぐ電話を思いついた。横着にも見えず、ことさらでもなし、自然に彼女がここまで出向いて来るような電話のかけ方はなかろうかと苦心した。しかしその苦心は水の泡《あわ》を製造する努力とほぼ似たものであった。いくら骨を折って拵《こしら》えても、すぐ後から消えて行くだけであった。根本的に無理な空想を実現させようと巧《たく》らんでいるのだから仕方がないと気がついた時、彼は一人で苦笑してまた硝子越《ガラスごし》に表を眺めた。
 表はいつか風立《かぜだ》った。洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物といっしょになって軽く揺れていた。それを掠《かす》めるようにかけ渡された三本の電線も、よそと調子を合せるようにふらふらと動いた。

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