二人はいつになく融《と》け合った。
今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が吾知《われし》らず弛《ゆる》んだ。自分の父が鄙吝《ひりん》らしく彼女の眼に映りはしまいかという掛念《けねん》、あるいは自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊《みくび》りはしまいかという恐れ、二つのものが原因になって、なるべく京都の方面に曖昧《あいまい》な幕を張り通そうとした警戒が解けた。そうして彼はそれに気づかずにいた。努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力でそこへ押し流されて来た。用心深い彼をそっと持ち上げて、事件がお延のために彼をそこまで運んで来てくれたと同じ事であった。お延にはそれが嬉《うれ》しかった。改めようとする決心なしに、改たまった夫の態度には自然があった。
同時に津田から見たお延にも、またそれと同様の趣《おもむき》が出た。余事はしばらく問題外に措《お》くとして、結婚後彼らの間には、常に財力に関する妙な暗闘があった。そうしてそれはこう云う因果《いんが》から来た。普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、その点において、自分をなるべく高くお延から評価させるために、父の財産を実際より遥《はる》か余計な額に見積ったところを、彼女に向って吹聴《ふいちょう》した。それだけならまだよかった。彼の弱点はもう一歩先へ乗り越す事を忘れなかった。彼のお延に匂《にお》わせた自分は、今より大変楽な身分にいる若旦那《わかだんな》であった。必要な場合には、いくらでも父から補助を仰ぐ事ができた。たとい仰がないでも、月々の支出に困る憂《うれい》はけっしてなかった。お延と結婚した時の彼は、もうこれだけの言責《げんせき》を彼女に対して背負《しょ》って立っていたのと同じ事であった。利巧《りこう》な彼は、財力に重きを置く点において、彼に優《まさ》るとも劣らないお延の性質をよく承知していた。極端に云えば、黄金《おうごん》の光りから愛その物が生れるとまで信ずる事のできる彼には、どうかしてお延の手前を取繕《とりつくろ》わなければならないという不安があった。ことに彼はこの点においてお延から軽蔑《けいべつ》されるのを深く恐れた。堀に依頼して毎月《まいげつ》父から助《す》けて貰《もら》うようにしたのも、実は必要以外にこんな魂胆が潜んでいたからでもあった。それでさえ彼はどこかに煙たいところをもっていた。少くとも彼女に対する内と外にはだいぶんの距離があった。眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取るごとくに分った。必然の勢い彼女はそこに不満を抱《いだ》かざるを得なかった。しかし彼女は夫の虚偽を責めるよりもむしろ夫の淡泊《たんぱく》でないのを恨《うら》んだ。彼女はただ水臭いと思った。なぜ男らしく自分の弱点を妻の前に曝《さら》け出《だ》してくれないのかを苦《く》にした。しまいには、それをあえてしないような隔《へだた》りのある夫なら、こっちにも覚悟があると一人腹の中できめた。するとその態度がまた木精《こだま》のように津田の胸に反響した。二人はどこまで行っても、直《じか》に向き合う訳に行かなかった。しかも遠慮があるので、なるべくそこには触れないように慎《つつ》しんでいた。ところがお秀との悶着《もんちゃく》が、偶然にもお延の胸にあるこの扉を一度にがらりと敲《たた》き破った。しかもお延自身|毫《ごう》もそこに気がつかなかった。彼女は自分を夫の前に開放しようという努力も決心もなしに、天然自然自分を開放してしまった。だから津田にもまるで別人《べつにん》のように快よく見えた。
二人はこういう風で、いつになく融《と》け合った。すると二人が融け合ったところに妙な現象がすぐ起った。二人は今まで回避していた問題を平気で取り上げた。二人はいっしょになって、京都に対する善後策を講じ出した。
二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。きっとお秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向ってやるに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。――ここまでは二人の一致する点であった。それから先が肝心《かんじん》の善後策になった。しかしそこへ来ると意見が区々《まちまち》で、容易に纏《まと》まらなかった。
お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。しかし津田は首を掉《ふ》った。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事をよく承知していた。次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。けれども岡本は津田の父とそれほど深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。彼女はいっそ簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。これには津田も大した違存《いぞん》はなかった。たとい今度の事件のためでなくとも、絶交を希望しない以上、何らかの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命をもっていたからである。しかしそれはそれとして、彼らはもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。彼らは考えた。
しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が具《そなわ》っていた。けれどもそこにはまた一種の困難があった。それほど親しく近づき悪《にく》い吉川に口を利《き》いて貰《もら》おうとすれば、是非共その前に彼の細君を口説《くど》き落さなければならなかった。ところがその細君はお延にとって大の苦手《にがて》であった。お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。細君と仲善《なかよし》の津田はまた充分|成効《せいこう》の見込がそこに見えているので、熱心にそれを主張した。しまいにお延はとうとう我《が》を折った。
事件後の二人は打ち解けてこんな相談をした後《あと》で心持よく別れた。
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