2008年11月7日金曜日

百十六

 津田は纏《まと》まらない事をそれからそれへと考えた。そのうちいつか午過《ひるす》ぎになってしまった。彼の頭は疲れていた。もう一つ事を長く思い続ける勇気がなくなった。しかし秋とは云いながら、独《ひと》り寝ているには日があまりに長過ぎた。彼は退屈を感じ出した。そうしてまたお延の方に想《おも》いを馳《は》せた。彼女の姿を今日も自分の眼の前に予期していた彼は横着《おうちゃく》であった。今まで彼女の手前|憚《はば》からなければならないような事ばかりを、さんざん考え抜いたあげく、それが厭《いや》になると、すぐお延はもう来そうなものだと思って平気でいた。自然頭の中に湧《わ》いて出るものに対して、責任はもてないという弁解さえその時の彼にはなかった。彼の見たお延に不可解な点がある代りに、自分もお延の知らない事実を、胸の中《うち》に納めているのだぐらいの料簡《りょうけん》は、遠くの方で働らいていたかも知れないが、それさえ、いざとならなければ判然《はっきり》した言葉になって、彼の頭に現われて来るはずがなかった。
 お延はなかなか来なかった。お延以上に待たれる吉川夫人は固《もと》より姿を見せなかった。津田は面白くなかった。先刻《さっき》から近くで誰かがやっている、彼の最も嫌《きらい》な謡《うたい》の声が、不快に彼の耳を刺戟《しげき》した。彼の記憶にある謡曲指南《ようきょくしなん》という細長い看板が急に思い出された。それは洗濯屋の筋向うに当る二階建の家《うち》であった。二階が稽古《けいこ》をする座敷にでもなっていると見えて、距離の割に声の方がむやみに大きく響いた。他《ひと》が勝手にやっているものを止《や》めさせる権利をどこにも見出《みいだ》し得ない彼は、彼の不平をどうする事もできなかった。彼はただ早く退院したいと思うだけであった。
 柳の木の後《うしろ》にある赤い煉瓦造《れんがづく》りの倉に、山形《やまがた》の下に一を引いた屋号のような紋が付いていて、その左右に何のためとも解《わか》らない、大きな折釘《おれくぎ》に似たものが壁の中から突き出している所を、津田が見るとも見ないとも片のつかない眼で、ぼんやり眺めていた時、遠慮のない足音が急に聞こえて、誰かが階子段《はしごだん》を、どしどし上《のぼ》って来た。津田はおやと思った。この足音の調子から、その主がもう七分通り、彼の頭の中では推定されていた。
 彼の予覚はすぐ事実になった。彼が室《へや》の入口に眼を転ずると、ほとんどおッつかッつに、小林は貰い立ての外套《がいとう》を着たままつかつか入って来た。
「どうかね」
 彼はすぐ胡坐《あぐら》をかいた。津田はむしろ苦しそうな笑いを挨拶《あいさつ》の代りにした。何しに来たんだという心持が、顔を見ると共にもう起っていた。
「これだ」と彼は外套の袖《そで》を津田に突きつけるようにして見せた。
「ありがとう、お蔭《かげ》でこの冬も生きて行かれるよ」
 小林はお延の前で云ったと同じ言葉を津田の前で繰り返した。しかし津田はお延からそれを聴《き》かされていなかったので、別に皮肉とも思わなかった。
「奥さんが来たろう」
 小林はまたこう訊《き》いた。
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」
 津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し躊躇《ちゅうちょ》した。彼は小林がどんな事をお延に話したか、それを知りたかった。それを彼の口からここで繰り返させさえすれば、自分の答は「うん」だろうが、「いいえ」だろうが、同じ事であった。しかしどっちが成功するかそこはとっさの際にきめる訳に行かなかった。ところがその態度が意外な意味になって小林に反響した。
「奥さんが怒って来たな。きっとそんな事だろうと、僕も思ってたよ」
 容易に手がかりを得た津田は、すぐそれに縋《すが》りついた。
「君があんまり苛《いじ》めるからさ」
「いや苛めやしないよ。ただ少し調戯《からか》い過ぎたんだ、可哀想《かわいそう》に。泣きゃしなかったかね」
 津田は少し驚ろいた。
「泣かせるような事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから出鱈目《でたらめ》さ。つまり奥さんは、岡本さん見たいな上流の家庭で育ったので、天下に僕のような愚劣な人間が存在している事をまだ知らないんだ。それでちょっとした事まで苦《く》にするんだろうよ。あんな馬鹿に取り合うなと君が平生から教えておきさえすればそれでいいんだ」
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずにやり返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」
 津田は言葉を改めた。
「しかし君はいったいどんな事を云って、彼奴《あいつ》に調戯ったのかい」
「そりゃもうお延さんから聴《き》いたろう」
「いいや聴かない」
 二人は顔を見合せた。互いの胸を忖度《そんたく》しようとする試みが、同時にそこに現われた。

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