するとその二階にある一室の障子《しょうじ》を開けて、開けた後《あと》をまた閉《た》て切《き》る音が聴《きこ》えた。階子段の構えから見ても、上にある室の数は一つや二つではないらしく思われるほど広い建物だのに、今津田の耳に入った音は、手に取るように判切《はっきり》しているので、彼はすぐその確的《たしか》さの度合から押して、室の距離を定める事ができた。
下から見上げた階子段の上は、普通料理屋の建築などで、人のしばしば目撃するところと何の異《こと》なるところもなかった。そこには広い板の間があった。目の届かない幅は問題外として、突き当りを遮《さえ》ぎる壁を目標《めやす》に置いて、大凡《おおよそ》の見当をつけると、畳一枚を竪《たて》に敷くだけの長さは充分あるらしく見えた。この板の間から、廊下が三方へ分れているか、あるいは二方に折れ曲っているか、そこは階段を上《のぼ》らない津田の想像で判断するよりほかに途《みち》はないとして、今聴えた障子の音の出所《でどころ》は、一番階段に近い室、すなわち下《し》たから見える壁のすぐ後《うしろ》に違なかった。
ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの刺戟《しげき》に気を奪《と》られていた彼は驚ろいた。もちろんその驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇《よみがえ》った時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児《まご》ついている今の自分に付着する間抜《まぬけ》さ加減《かげん》を他《ひと》に見せるのが厭《いや》だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己《おの》れの醜くさを人前に曝《さら》すのが恥ずかしかったからでもある。
けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん歩《ほ》を回《めぐ》らそうとした刹那《せつな》に彼は気がついた。
「ことによると下女かも知れない」
こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を超《こ》える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。
「誰でもいい、来たら方角を教えて貰《もら》おう」
彼は決心して姿見《すがたみ》の横に立ったまま、階子段《はしごだん》の上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵《かかと》へ跳《は》ね上る上靴《スリッパー》の薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。
「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」
不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚《とら》われた津田の足はたちまち立《た》ち竦《すく》んだ。眼は動かなかった。
同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑えつけたらしかった。階上の板の間まで来てそこでぴたりととまった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。彼は忘れる事のできない印象の一つとして、それを後々《のちのち》まで自分の心に伝えた。
彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。少くとも津田にはそう思われた。無心《むしん》が有心《ゆうしん》に変るまでにはある時がかかった。驚ろきの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過した後《あと》で、彼女は始めて棒立になった。横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作った人形を倒すよりたやすく倒せそうな姿勢で、硬くなったまま棒立に立った。
彼女は普通の湯治客《とうじきゃく》のする通り、寝しなに一風呂入って温《あたた》まるつもりと見えて、手に小型のタウエルを提《さ》げていた。それから津田と同じようにニッケル製の石鹸入《シャボンいれ》を裸《はだか》のまま持っていた。棒のように硬く立った彼女が、なぜそれを床の上へ落さなかったかは、後からその刹那《せつな》の光景を辿《たど》るたびに、いつでも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であった。
彼女の姿は先刻《さっき》風呂場で会った婦人ほど縦《ほしい》ままではなかった。けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。赤だの青だの黄だの、いろいろの縞《しま》が綺麗《きれい》に通っている派手《はで》な伊達巻《だてまき》を、むしろずるずるに巻きつけたままであった。寝巻《ねまき》の下に重ねた長襦袢《ながじゅばん》の色が、薄い羅紗製《らしゃせい》の上靴《スリッパー》を突《つっ》かけた素足《すあし》の甲を被《おお》っていた。
清子の身体《からだ》が硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなった。そうして両方の頬と額の色が見る見るうちに蒼白《あおじろ》く変って行った。その変化がありありと分って来た中頃で、自分を忘れていた津田は気がついた。
「どうかしなければいけない。どこまで蒼くなるか分らない」
津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと後《うしろ》を向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上《あが》り口《くち》の電灯がぱっと消えた。津田は暗闇《くらやみ》の中で開けるらしい障子《しょうじ》の音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍《そば》の小さな部屋で呼鈴《よびりん》の返しの音がけたたましく鳴った。
やがて遠い廊下をぱたぱた馳《か》けて来る足音が聴《き》こえた。彼はその足音の主《ぬし》を途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室《へや》の在所《ありどころ》を教えて貰《もら》った。
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