2008年11月5日水曜日

百七十七

  その晩の津田はよく眠れなかった。雨戸の外でするさらさらいう音が絶えず彼の耳に付着した。それを離れる事のできない彼は疑った。雨が来たのだろうか、谿川《たにがわ》が軒の近くを流れているのだろうか。雨としては庇《ひさし》に響がないし、谿川としては勢《いきおい》が緩漫過ぎるとまで考えた彼の頭は、同時にそれより遥《はる》か重大な主題のために悩まされていた。
 彼は室に帰ると、いつの間にか気を利《き》かせた下女の暖かそうに延べておいてくれた床を、わが座敷の真中に見出《みいだ》したので、すぐその中へ潜《もぐ》り込《こ》んだまま、偶然にも今自分が経過して来た冒険について思い耽《ふけ》ったのである。
 彼はこの宵《よい》の自分を顧りみて、ほとんど夢中歩行者《ソムナンビュリスト》のような気がした。彼の行為は、目的《あて》もなく家中《うちじゅう》彷徨《うろつ》き廻ったと一般であった。ことに階子段《はしごだん》の下で、静中に渦《うず》を廻転させる水を見たり、突然|姿見《すがたみ》に映る気味の悪い自分の顔に出会ったりした時は、事後一時間と経《た》たない近距離から判断して見ても、たしかに常軌《じょうき》を逸した心理作用の支配を受けていた。常識に見捨てられた例《ためし》の少ない彼としては珍らしいこの気分は、今床の中に安臥する彼から見れば、恥ずべき状態に違《ちがい》なかった。しかし外聞が悪いという事をほかにして、なぜあんな心持になったものだろうかと、ただその原因を考えるだけでも、説明はできなかった。
 それはそれとして、なぜあの時清子の存在を忘れていたのだろうという疑問に推《お》し移ると、津田は我ながら不思議の感に打たれざるを得なかった。
「それほど自分は彼女に対して冷淡なのだろうか」
 彼は無論そうでないと信じていた。彼は食事の時、すでに清子のいる方角を、下女から教えて貰ったくらいであった。
「しかしお前はそれを念頭に置かなかったろう」
 彼は実際廊下をうろうろ歩行《ある》いているうちに、清子をどこかへふり落した。けれども自分のどこを歩いているか知らないものが、他《ひと》がどこにいるか知ろうはずはなかった。
「この見当《けんとう》だと心得てさえいたならば、ああ不意打《ふいうち》を食うんじゃなかったのに」
 こう考えた彼は、もう第一の機会を取り逃したような気がした。彼女が後を向いた様子、電気を消して上《あが》り口《くち》の案内を閉塞《へいそく》した所作《しょさ》、たちまち下女を呼び寄せるために鳴らした電鈴《ベル》の音、これらのものを綜合《そうごう》して考えると、すべてが警戒であった。注意であった。そうして絶縁であった。
 しかし彼女は驚ろいていた。彼よりも遥《はる》か余計に驚ろいていた。それは単に女だからとも云えた。彼には不意の裡《うち》に予期があり、彼女には突然の中《うち》にただ突然があるだけであったからとも云えた。けれども彼女の驚ろきはそれで説明し尽せているだろうか。彼女はもっと複雑な過去を覿面《てきめん》に感じてはいないだろうか。
 彼女は蒼《あお》くなった。彼女は硬くなった。津田はそこに望みを繋《つな》いだ。今の自分に都合《つごう》の好いようにそれを解釈してみた。それからまたその解釈を引繰返《ひっくりかえ》して、反対の側《がわ》からも眺めてみた。両方を眺め尽した次にはどっちが合理的だろうという批判をしなければならなくなった。その批判は材料不足のために、容易に纏《まと》まらなかった。纏ってもすぐ打ち崩《くず》された。一方に傾くと彼の自信が壊しに来た。他方に寄ると幻滅の半鐘が耳元に鳴り響いた。不思議にも彼の自信、卑下《ひげ》して用いる彼自身の言葉でいうと彼の己惚《おのぼれ》は、胸の中《うち》にあるような気がした。それを攻めに来る幻滅の半鐘はまた反対にいつでも頭の外から来るような心持がした。両方を公平に取扱かっているつもりでいながら、彼は常に親疎《しんそ》の区別をその間に置いていた。というよりも、遠近の差等が自然天然属性として二つのものに元から具《そな》わっているらしく見えた。結果は分明《ぶんみょう》であった。彼は叱《しか》りながら己惚《おのぼれ》の頭を撫《な》でた。耳を傾けながら、半鐘の音を忌《い》んだ。
 かくして互いに追《おっ》つ追《お》われつしている彼の心に、静かな眠は来《き》ようとしても来られなかった。万事を明日《あす》に譲る覚悟をきめた彼は、幾度《いくたび》かそれを招き寄せようとして失敗《しくじ》ったあげく、右を向いたり、左を下にしたり、ただ寝返《ねがえ》りの数を重ねるだけであった。
 彼は煙草へ火を点《つ》けようとして枕元にある燐寸《マッチ》を取った。その時|袖畳《そでだた》みにして下女が衣桁《いこう》へかけて行った※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍《どてら》が眼に入《い》った。気がついて見ると、お延の鞄《かばん》へ入れてくれたのはそのままにして、先刻《さっき》宿で出したのを着たなり、自分は床の中へ入っていた。彼は病院を出る時、新調の※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍に対してお延に使ったお世辞《せじ》をたちまち思い出した。同時にお延の返事も記憶の舞台に呼び起された。
「どっちが好いか比べて御覧なさい」
 ※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍ははたして宿の方が上等であった。銘仙と糸織の区別は彼の眼にも一目瞭然《いちもくりょうぜん》であった。※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍《どてら》を見較《みくら》べると共に、細君を前に置いて、内々心の中《うち》で考えた当時の事が再び意識の域上《いきじょう》に現われた。
「お延と清子」
 独《ひと》りこう云った彼はたちまち吸殻を灰吹の中へ打ち込んで、その底から出るじいという音を聴《き》いたなり、すぐ夜具を頭から被《かぶ》った。
 強《し》いて寝ようとする決心と努力は、その決心と努力が疲れ果ててどこかへ行ってしまった時に始めて酬《むく》いられた。彼はとうとう我知らず夢の中に落ち込んだ。

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