2008年11月6日木曜日

百六十六

 小林の所作《しょさ》は津田にとって全くの意外であった。突然毒気を抜かれたところに十分以上の皮肉を味わわせられた彼の心は、相手に向って躍《おど》った。憎悪《ぞうお》の電流とでも云わなければ形容のできないものが、とっさの間に彼の身体《からだ》を通過した。
 同時に聡明な彼の頭に一種の疑《うたがい》が閃《ひら》めいた。
「此奴《こいつ》ら二人は共謀《ぐる》になって先刻《さっき》からおれを馬鹿にしているんじゃないかしら」
 こう思うのと、大通りの角で立談《たちばなし》をしていた二人の姿と、ここへ来てからの小林の挙動と、途中から入って来た原の様子と、その後《ご》三人の間に起った談話の遣取《やりとり》とが、どれが原因ともどれが結果とも分らないような迅速の度合で、津田の頭の中を仕懸花火《しかけはなび》のようにくるくると廻転した。彼は白い食卓布《テーブルクロース》の上に、行儀よく順次に並べられた新らしい三枚の十円紙幣を見て、思わず腹の中で叫んだ。
「これがこの摺《す》れッ枯《か》らしの拵《こしら》え上げた狂言の落所《おち》だったのか。馬鹿奴《ばかめ》、そう貴様の思わく通りにさせてたまるものか」
 彼は傷《きずつ》けられた自分のプライドに対しても、この不名誉な幕切《まくぎれ》に一転化を与えた上で、二人と別れなければならないと考えた。けれどもどうしたらこう最後まで押しつめられて来た不利な局面を、今になって、旨《うま》くどさりと引繰《ひっく》り返す事ができるかの問題になると、あらかじめその辺の準備をしておかなかった彼は、全くの無能力者であった。
 外観上の落ちつきを比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく往来した。けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何らの帰着点を彼に示してくれないので、むらむらとした後《あと》の彼の心は、いたずらにわくわくするだけであった。そのわくわくがいつの間《ま》にか狼狽《ろうばい》の姿に進化しつつある事さえ、残念ながら彼には意識された。
 この危機一髪という間際に、彼はまた思いがけない現象に逢着《ほうちゃく》した。それは小林の並べた十円紙幣が青年芸術家に及ぼした影響であった。紙幣の上に落された彼の眼から出る異様の光であった。そこには驚ろきと喜びがあった。一種の飢渇《きかつ》があった。掴《つか》みかかろうとする慾望の力があった。そうしてその驚ろきも喜びも、飢渇も慾望も、一々|真《しん》その物の発現であった。作りもの、拵《こしら》え事、馴《な》れ合《あ》いの狂言とは、どうしても受け取れなかった。少くとも津田にはそうとしか思えなかった。
 その上津田のこの判断を確めるに足る事実が後《あと》から継《つ》いで起った。原はそれほど欲しそうな紙幣《さつ》へ手を出さなかった。と云って断然小林の親切を斥《しり》ぞける勇気も示さなかった。出したそうな手を遠慮して出さずにいる苦痛の色が、ありありと彼の顔つきで読まれた。もしこの蒼白《あおじろ》い青年が、ついに紙幣《さつ》の方へ手を出さないとすると、小林の拵《こしら》えたせっかくの狂言も半分はぶち壊《こわ》しになる訳であった。もしまた小林がいったん隠袋《ポケット》から出した紙幣を、当初の宣告通り、幾分でも原の手へ渡さずに、再びもとへ収めたなら、結果は一層の喜劇に変化する訳であった。どっちにしても自分の体面を繕《つくろ》うのには便宜《べんぎ》な方向へ発展して行きそうなので、そこに一縷《いちる》の望を抱《いだ》いた津田は、もう少し黙って事の成行を見る事にきめた。
 やがて二人の間に問答が起った。
「なぜ取らないんだ、原君」
「でもあんまり御気の毒ですから」
「僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ」
「ええ、どうもありがとう」
「君の前に坐《すわ》ってるその男は男でまた僕の方を気の毒だと思ってるんだ」
「はあ」
 原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。
「その紙幣は三枚共、僕が今その男から貰《もら》ったんだ。貰い立てのほやほやなんだ」
「じゃなおどうも……」
「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君にやれるんだ。僕が安々と君にやれるんだから、君も安々と取れるんだ」
「そういう論理《ロジック》になるかしら」
「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる膏汗《あぶらあせ》に対しても済まないよ。しかしこれは何でもないんだ。余裕が空間に吹き散らしてくれる浄財《じょうざい》だ。拾ったものが功徳《くどく》を受ければ受けるほど余裕は喜こぶだけなんだ。ねえ津田君そうだろう」
 忌々《いまいま》しい関所をもう通り越していた津田は、かえって好いところで相談をかけられたと同じ事であった。鷹揚《おうよう》な彼の一諾は、今夜ここに落ち合った不調和な三人の会合に、少くとも形式上|体裁《ていさい》の好い結末をつけるのに充分であった。彼は醜陋《しゅうろう》に見える自分の退却を避けるために眼前の機会を捕えた。
「そうだね。それが一番いいだろう」
 小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。残る二枚を再びもとの隠袋《ポケット》へ収める時、彼は津田に云った。
「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。だからやっぱり君に対してサンクスだ」
 表へ出た三人は濠端《ほりばた》へ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜《ほしづきよ》を仰いだ。

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