2008年11月6日木曜日

百六十五

 その時|先刻《さっき》火を点《つ》けて吸い始めた巻煙草《まきたばこ》の灰が、いつの間にか一寸近くの長さになって、ぽたりと罫紙《けいし》の上に落ちた。津田は竪横《たてよこ》に走る藍色《あいいろ》の枠《わく》の上に崩《くず》れ散ったこの粉末に視覚を刺撃されて、ふと気がついて見ると、彼は煙草を持った手をそれまで動かさずにいた。というより彼の口と手がいつか煙草の存在を忘れていた。その上手紙を読み終ったのと煙草の灰を落したのとは同時でないのだから、二つの間にはさまるぼんやりしたただの時間を認めなければならなかった。
 その空虚な時間ははたして何のために起ったのだろう。元来をいうと、この手紙ほど津田に縁の遠いものはなかった。第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。第二にそれを書いた人と小林との関係がどうなっているのか皆目《かいもく》解らなかった。中に述べ立ててある事柄に至ると、まるで別世界の出来事としか受け取れないくらい、彼の位置及び境遇とはかけ離れたものであった。
 しかし彼の感想はそこで尽きる訳に行かなかった。彼はどこかでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に後《うしろ》をふり返らせられた。そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。するとああああこれも人間だという心持が、今日《こんにち》までまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。極《きわ》めて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。
 彼はそこでとまった。そうして※[#「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31]徊《ていかい》した。けれどもそれより先へは一歩も進まなかった。彼は彼相応の意味で、この気味の悪い手紙を了解したというまでであった。
 彼が原稿紙から煙草の灰を払い落した時、原を相手に何か話し続けていた小林はすぐ彼の方を向いた。用談を切り上げるためらしい言葉がただ一句彼の耳に響いた。
「なに大丈夫だ。そのうちどうにかなるよ、心配しないでもいいや」
 津田は黙って手紙を小林の方へ出した。小林はそれを受け取る前に訊いた。
「読んだか」
「うん」
「どうだ」
 津田は何とも答えなかった。しかし一応相手の主意を確かめて見る必要を感じた。
「いったい何のためにそれを僕に読ませたんだ」
 小林は反問した。
「いったい何のために読ませたと思う」
「僕の知らない人じゃないか、それを書いた人は」
「無論知らない人さ」
「知らなくってもいいとして、僕に何か関係があるのか」
「この男がか、この手紙がか」
「どっちでも構わないが」
「君はどう思う」
 津田はまた躊躇《ちゅうちょ》した。実を云うと、それは手紙の意味が彼に通じた証拠であった。もっと明暸《めいりょう》にいうと、自分は自分なりにその手紙を解釈する事ができたという自覚が彼の返事を鈍《にぶ》らせたのと同様であった。彼はしばらくして云った。
「君のいう意味なら、僕には全く無関係だろう」
「僕のいう意味とは何だ?」
「解らないか」
「解らない。云って見ろ」
「いや、――まあ止《よ》そう」
 津田は先刻《さっき》の絵と同じ意味で、小林がこの手紙を自分の前に突きつけるのではなかろうかと疑った。何《なん》でもかでも彼を物質上の犠牲者にし終《おお》せた上で、後《あと》からざまを見ろ、とうとう降参したじゃないかという態度に出られるのは、彼にとって忍ぶべからざる侮辱であった。いくら貧乏の幽霊で威嚇《おどか》したってその手に乗るものかという彼の気慨が、自然小林の上に働らきかけた。
「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか」
「男らしく? ふん」と云っていったん言葉を句切った小林は、後から付け足した。
「じゃ説明してやろう。この人もこの手紙も、乃至《ないし》この手紙の中味も、すべて君には無関係だ。ただし世間的に云えばだぜ、いいかね。世間的という意味をまた誤解するといけないから、ついでにそれも説明しておこう。君はこの手紙の内容に対して、俗社会にいわゆる義務というものを帯びていないのだ」
「当り前じゃないか」
「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」
「いくら大きくしたって、金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ」
「そうだろう、君の事だから。しかし同情心はいくらか起るだろう」
「そりゃ起るにきまってるじゃないか」
「それでたくさんなんだ、僕の方は。同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」
 こう云った小林は、手紙を隠袋《ポケット》へしまい込むと同時に、同じ場所から先刻の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並べた。
「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」
 彼はこう云って原の方を見た。

0 件のコメント: