津田の言葉つきなり様子なりからして、お延は彼の心を明暸《めいりょう》に推察する事ができた。――夫は彼の留守《るす》に小林の来た事を苦《く》にしている。その小林が自分に何を話したかをなお気に病《や》んでいる。そうしてその話の内容は、まだ判然《はっきり》掴《つか》んでいない。だから鎌《かま》をかけて自分を釣り出そうとする。
そこに明らかな秘密があった。材料として彼女の胸に蓄わえられて来たこれまでのいっさいは、疑《うたがい》もなく矛盾もなく、ことごとく同じ方角に向って注ぎ込んでいた。秘密は確実であった。青天白日のように明らかであった。同時に青天白日と同じ事で、どこにもその影を宿さなかった。彼女はそれを見つめるだけであった。手を出す術《すべ》を知らなかった。
悩乱《のうらん》のうちにまだ一分《いちぶん》の商量《しょうりょう》を余した利巧《りこう》な彼女は、夫のかけた鎌を外《はず》さずに、すぐ向うへかけ返した。
「じゃ本当を云いましょう。実は小林さんから詳しい話をみんな聴《き》いてしまったんです。だから隠したってもう駄目《だめ》よ。あなたもずいぶんひどい方《かた》ね」
彼女の云《い》い草《ぐさ》はほとんどでたらめに近かった。けれどもそれを口にする気持からいうと、全くの真剣沙汰《しんけんざた》と何の異《こと》なるところはなかった。彼女は熱を籠《こ》めた語気で、津田を「ひどい方《かた》」と呼ばなければならなかった。
反響はすぐ夫の上に来た。津田はこのでたらめの前に退避《たじ》ろぐ気色《けしき》を見せた。お秀の所で遣《や》り損《そく》なった苦《にが》い経験にも懲《こ》りず、また同じ冒険を試みたお延の度胸は酬《むく》いられそうになった。彼女は一躍して進んだ。
「なぜこうならない前に、打ち明けて下さらなかったんです」
「こうならない前」という言葉は曖昧《あいまい》であった。津田はその意味を捕捉《ほそく》するに苦しんだ。肝心《かんじん》のお延にはなお解らなかった。だから訊《き》かれても説明しなかった。津田はただぼんやりと念を押した。
「まさか温泉へ行く事をいうんじゃあるまいね。それが不都合だと云うんなら、やめても構わないが」
お延は意外な顔をした。
「誰がそんな無理をいうもんですか。会社の方の都合《つごう》がついて、病後の身体《からだ》を回復する事ができれば、それほど結構な事はないじゃありませんか。それが悪いなんてむちゃくちゃを云《い》い募《つの》るあたしだと思っていらっしゃるの、馬鹿らしい。ヒステリーじゃあるまいし」
「じゃ行ってもいいかい」
「よござんすとも」と云った時、お延は急に袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出して顔へ当てたと思うと、しくしく泣き出した。あとの言葉は、啜《すす》り上げる声の間から、句をなさずに、途切《とぎ》れ途切れに、毀《こわ》れ物のような形で出て来た。
「いくらあたしが、……わがままだって、……あなたの療養の……邪魔をするような、……そんな……あたしは不断からあなたがあたしに許して下さる自由に対して感謝の念をもっているんです……のにあたしがあなたの転地療養を……妨げるなんて……」
津田はようやく安心した。けれどもお延にはまだ先があった。発作《ほっさ》が静まると共に、その先は比較的すらすら出た。
「あたしはそんな小さな事を考えているんじゃないんです。いくらあたしが女だって馬鹿だって、あたしにはまたあたしだけの体面というものがあります。だから女なら女なり、馬鹿なら馬鹿なりに、その体面を維持《いじ》して行きたいと思うんです。もしそれを毀損《きそん》されると……」
お延はこれだけ云いかけてまた泣き出した。あとはまた切れ切れになった。
「万一……もしそんな事があると……岡本の叔父に対しても……叔母に対しても……面目《めんぼく》なくて、合わす顔がなくなるんです。……それでなくっても、あたしはもう秀子さんなんぞから馬鹿にされ切っているんです。……それをあなたは傍《そば》で見ていながら、……すまして……すまして……知らん顔をしていらっしゃるんです」
津田は急に口を開いた。
「お秀がお前を馬鹿にしたって? いつ? 今日お前が行った時にかい」
津田は我知らずとんでもない事を云ってしまった。お延が話さない限り、彼はその会見を知るはずがなかったのである。お延の眼ははたして閃《ひら》めいた。
「それ御覧なさい。あたしが今日秀子さんの所へ行った事が、あなたにはもうちゃんと知れているじゃありませんか」
「お秀が電話をかけたよ」という返事がすぐ津田の咽喉《のど》から外へ滑《すべ》り出さなかった。彼は云おうか止《よ》そうかと思って迷った。けれども時に一寸《いっすん》の容赦《ようしゃ》もなかった。反吐《へど》もどしていればいるほど形勢は危《あや》うくなるだけであった。彼はほとんど行きつまった。しかし間髪《かんはつ》を容《い》れずという際《きわ》どい間際《まぎわ》に、旨《うま》い口実が天から降って来た。
「車夫《くるまや》が帰って来てそう云ったもの。おおかたお時が車夫に話したんだろう」
幸いお延がお秀の後を追《おっ》かけて出た事は、下女にも解っていた。偶発の言訳が偶中《ぐうちゅう》の功《こう》を奏した時、津田は再度の胸を撫《な》で下《おろ》した。
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