小林は旨《うま》く津田を釣り寄せた。それと知った津田は考えがあるので、小林にわざと釣り寄せられた。二人はとうとう際《きわ》どい所へ入り込まなければならなくなった。
「例《たと》えばだね」と彼が云い出した。「君はあの清子《きよこ》さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何《なん》でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」
「結果は今のごとくさ」
「大変|淡泊《さっぱ》りしているじゃないか」
「だってほかにしようがなかろう」
「いや、あるんだろう。あっても乙《おつ》に気取《きど》って澄ましているんだろう。でなければ僕に隠して今でも何かやってるんだろう」
「馬鹿いうな。そんな出鱈目《でたらめ》をむやみに口走るととんだ間違になる。少し気をつけてくれ」
「実は」と云いかけた小林は、その後《あと》を知ってるかと云わぬばかりの様子をした。津田はすぐ訊きたくなった。
「実はどうしたんだ」
「実はこの間《あいだ》君の細君にすっかり話しちまったんだ」
津田の表情がたちまち変った。
「何を?」
小林は相手の調子と顔つきを、噛《か》んで味わいでもするように、しばらく間《ま》をおいて黙っていた。しかし返事を表へ出した時は、もう態度を一変していた。
「嘘《うそ》だよ。実は嘘だよ。そう心配する事はないよ」
「心配はしない。今になってそのくらいの事を云《い》つけられたって」
「心配しない? そうか、じゃこっちも本当だ。実は本当だよ。みんな話しちまったんだよ」
「馬鹿ッ」
津田の声は案外大きかった。行儀よく椅子《いす》に腰をかけていた給仕の女が、ちょっと首を上げて眼をこっちへ向けたので、小林はすぐそれを材料にした。
「貴婦人《レデー》が驚ろくから少し静かにしてくれ。君のような無頼漢《ぶらいかん》といっしょに酒を飲むと、どうも外聞が悪くていけない」
彼は給使《きゅうじ》の女の方を見て微笑して見せた。女も微笑した。津田一人|怒《おこ》る訳に行かなかった。小林はまたすぐその機に付け込んだ。
「いったいあの顛末《てんまつ》はどうしたのかね。僕は詳しい事を聴《き》かなかったし、君も話さなかった、のじゃない、僕が忘れちまったのか。そりゃどうでも構わないが、ありゃ向うで逃げたのかね、あるいは君の方で逃げたのかね」
「それこそどうでも構わないじゃないか」
「うん僕としては構わないのが当然だ。また実際構っちゃいない。が、君としてはそうは行くまい。君は大構《おおかま》いだろう」
「そりゃ当り前さ」
「だから先刻《さっき》から僕が云うんだ。君には余裕があり過ぎる。その余裕が君をしてあまりに贅沢《ぜいたく》ならしめ過ぎる。その結果はどうかというと、好きなものを手に入れるや否や、すぐその次のものが欲しくなる。好きなものに逃げられた時は、地団太《じだんだ》を踏んで口惜《くや》しがる」
「いつそんな様《ざま》を僕がした」
「したともさ。それから現にしつつあるともさ。それが君の余裕に祟《たた》られている所以《ゆえん》だね。僕の最も痛快に感ずるところだね。貧賤《ひんせん》が富貴《ふうき》に向って復讐《ふくしゅう》をやってる因果応報《いんがおうほう》の理だね」
「そう頭から自分の拵《こしら》えた型《かた》で、他《ひと》を評価する気ならそれまでだ。僕には弁解の必要がないだけだから」
「ちっとも自分で型なんか拵えていやしないよ僕は。これでも実際の君を指摘しているつもりなんだから。分らなけりゃ、事実で教えてやろうか」
教えろとも教えるなとも云わなかった津田は、ついに教えられなければならなかった。
「君は自分の好みでお延《のぶ》さんを貰《もら》ったろう。だけれども今の君はけっしてお延さんに満足しているんじゃなかろう」
「だって世の中に完全なもののない以上、それもやむをえないじゃないか」
「という理由をつけて、もっと上等なのを探し廻る気だろう」
「人聞の悪い事を云うな、失敬な。君は実際自分でいう通りの無頼漢《ぶらいかん》だね。観察の下卑《げび》て皮肉なところから云っても、言動の無遠慮で、粗野《そや》なところから云っても」
「そうしてそれが君の軽蔑《けいべつ》に値《あたい》する所以《ゆえん》なんだ」
「もちろんさ」
「そらね。そう来るから畢竟《ひっきょう》口先じゃ駄目《だめ》なんだ。やッぱり実戦でなくっちゃ君は悟れないよ。僕が予言するから見ていろ。今に戦いが始まるから。その時ようやく僕の敵でないという意味が分るから」
「構わない、擦《す》れっ枯《か》らしに負けるのは僕の名誉だから」
「強情だな。僕と戦うんじゃないぜ」
「じゃ誰と戦うんだ」
「君は今すでに腹の中で戦いつつあるんだ。それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。余裕が君を煽動《せんどう》して無役《むえき》の負戦《まけいくさ》をさせるんだ」
津田はいきなり懐中から紙入を取り出して、お延と相談の上、餞別《せんべつ》の用意に持って来た金を小林の前へ突きつけた。
「今渡しておくから受取っておけ。君と話していると、だんだんこの約束を履行するのが厭《いや》になるだけだから」
小林は新らしい十円|紙幣《さつ》の二つに折れたのを広げて丁寧に、枚数を勘定した。
「三枚あるね」
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