室《へや》に帰って朝食《あさめし》の膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。
「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」
「ええ。あちらへ行って御覧になりましたか」
「いいや、おおかたそうだろうと思っただけさ」
「よく当りましたね。ちとお遊びにいらっしゃいまし、旦那も奥さんも面白い方です。退屈だ退屈だって毎日困ってらっしゃるんです」
「よっぽど長くいるのかい」
「ええもう十日ばかりになるでしょう」
「あれだね、義太夫をやるってえのは」
「ええ、よく御存じですね、もうお聴《き》きになりましたか」
「まだだよ。ただ勝さんに教わっただけだ」
彼が聴くがままに、二人についての知識を惜気《おしげ》もなく供給した下女は、それでも分も心得ていた。急所へ来るとわざと津田の問を外《はず》した。
「時にあの女の人はいったい何だね」
「奥さんですよ」
「本当の奥さんかね」
「ええ、本当の奥さんでしょう」と云った彼女は笑い出した。「まさか嘘《うそ》の奥さんてのもないでしょう、なぜですか」
「なぜって、素人《しろうと》にしちゃあんまり粋過《いきす》ぎるじゃないか」
下女は答える代りに、突然清子を引合《ひきあい》に出した。
「もう一人奥にいらっしゃる奥さんの方がお人柄《ひとがら》です」
間取《まどり》の関係から云って、清子の室《へや》は津田の後《うしろ》、二人づれの座敷は津田の前に当った。両方の中間に自分を見出《みいだ》した彼はようやく首肯《うなず》いた。
「するとちょうど真中辺《まんなかへん》だね、ここは」
真中でも室が少し折れ込んでいるので、両方の通路にはなっていなかった。
「その奥さんとあの二人のお客とは友達なのかい」
「ええ御懇意です」
「元から?」
「さあどうですか、そこはよく存じませんが、――おおかたここへいらしってからお知合におなんなすったんでしょう。始終《しじゅう》行ったり来たりしていらっしゃいます、両方ともお閑《ひま》なもんですから。昨日《きのう》も公園へいっしょにお出かけでした」
津田は問題を取り逃がさないようにした。
「その奥さんはなぜ一人でいるんだね」
「少し身体《からだ》がお悪いんです」
「旦那《だんな》さんは」
「いらっしゃる時は旦那さまもごいっしょでしたが、すぐお帰りになりました」
「置《お》いてきぼりか、そりゃひどいな。それっきり来ないのかい」
「何でも近いうちにまたいらっしゃるとかいう事でしたが、どうなりましたか」
「退屈だろうね、奥さんは」
「ちと話しに行って、お上げになったらいかがです」
「話しに行ってもいいかね、後で聴いといてくれたまえ」
「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。津田はまた訊《き》いた。
「何をして暮しているのかね、その奥さんは」
「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかお活《い》けになります、それから夜よく手習をしていらっしゃいます」
「そうかい。本は?」
「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり煩瑣《はんさ》にわたるので、とうとうあははと笑い出した。津田はようやく気がついて、少し狼狽《あわて》たように話を外《そ》らせた。
「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、塞《ふさ》がってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」
「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」
先生というのは書の専門家であった。方々にかかっている額や看板でその落※[#「(肄-聿)+欠」、第3水準1-86-31]《らっかん》を覚えていた津田は「へええ」と云った。
「もう年寄だろうね」
「ええお爺《じい》さんです。こんなに白い髯《ひげ》を生やして」
下女は胸のあたりへ自分の手をやって書家に相応《ふさ》わしい髯の長さを形容して見せた。
「なるほど。やっぱり字を書いてるのかい」
「ええ何だかお墓に彫りつけるんだって、大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます」
書家はその墓碑銘を書くのが目的で、わざわざここへ来たのだと下女から聴《き》かされた時、津田は驚ろいて感心した。
「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。素人《しろうと》は半日ぐらいで、すぐ出来上りそうに考えてるんだが」
この感想は全く下女に響かなかった。しかし津田の胸には口へ出して云わないそれ以上の或物さえあった。彼は暗《あん》にこの老先生の用向《ようむき》と自分の用向とを見較《みくら》べた。無事に苦しんで義太夫の稽古《けいこ》をするという浜の二人をさらにその傍《かたわら》に並べて見た。それから何の意味とも知れず花を活けたり手習をしたりするらしい清子も同列に置いて考えた。最後に、残る一人の客、その客は話もしなければ運動もせず、ただぽかんと座敷に坐《すわ》って山を眺めているという下女の観察を聴いた時、彼は云った。
「いろんな人がいるんだね。五六人寄ってさえこうなんだから。夏や正月になったら大変だろう」
「いっぱいになるとどうしても百三四十人は入りますからね」
津田の意味をよく了解しなかったらしい下女は、ただ自分達の最も多忙を極《きわ》めなければならない季節に、この家《うち》へ入《い》り込《こ》んでくる客の人数《にんず》を挙げた。
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