食後の津田は床《とこ》の脇《わき》に置かれた小机の前に向った。下女に頼んで取り寄せた絵端書へ一口ずつ文句を書き足して、その表へ名宛《なあて》を記《しる》した。お延へ一枚、藤井の叔父へ一枚、吉川夫人へ一枚、それで必要な分は済んでしまったのに、下女の持って来た絵端書はまだ幾枚も余っていた。
彼は漫然と万年筆を手にしたまま、不動の滝《たき》だの、ルナ公園《パーク》だのと、山里に似合わない変な題を付けた地方的の景色をぼんやり眺めた。それからまた印気《インキ》を走らせた。今度はお秀の夫と京都にいる両親|宛《あて》の分がまたたく間《ま》に出来上った。こう書き出して見ると、ついでだからという気も手伝って、ありたけの絵端書をみんな使ってしまわないと義理が悪いようにも思われた。最初は考えていなかった岡本だの、岡本の子供の一《はじめ》だの、その一の学校友達という連想から、また自分の親戚《みうち》の方へ逆戻りをして、甥《おい》の真事《まこと》だの、いろいろな名がたくさん並べられた。初手《しょて》から気がついていながら、最後まで名を書かなかったのは小林だけであった。他《ほか》の意味は別として、ただ在所《ありか》を嗅《か》ぎつけられるという恐れから、津田はどうしてもこの旅行先を彼に知らせたくなかったのである。その小林は不日《ふじつ》朝鮮へ行くべき人であった。無検束をもって自《みずか》ら任ずる彼は、海を渡る覚悟ですでにもう汽車に揺られているかも知れなかった。同時に不規律な彼はまた出立と公言した日が来ても動かずにいないとも限らなかった。絵端書を見て、(もし津田がそれを出すとすると、)すぐここへやって来ないという事はけっして断言できなかった。
津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介《やっかい》なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙《そば》だてた。するといったん緒口《いとくち》の開《あ》いた想像の光景《シーン》はそこでとまらなかった。彼を拉《らっ》してずんずん先へ進んだ。彼は突然玄関へ馬車を横付にする、そうして怒鳴《どな》り込むような大きな声を出して彼の室《へや》へ入ってくる小林の姿を眼前に髣髴《ほうふつ》した。
「何しに来た」
「何しにでもない、貴様を厭《いや》がらせに来たんだ」
「どういう理由《わけ》で」
「理由も糸瓜《へちま》もあるもんか。貴様がおれを厭《いや》がる間は、いつまで経《た》ってもどこへ行っても、ただ追《おっ》かけるんだ」
「畜生ッ」
津田は突然|拳《こぶし》を固めて小林の横《よこ》ッ面《つら》を撲《なぐ》らなければならなかった。小林は抵抗する代りに、たちまち大の字になって室《へや》の真中へ踏《ふ》ん反《ぞ》り返らなければならなかった。
「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」
まるで舞台の上でなければ見られないような活劇が演ぜられなければならなかった。そうしてそれが宿中《やどじゅう》の視聴を脅《おびや》かさなければならなかった。その中には是非とも清子が交《まじ》っていなければならなかった。万事は永久に打ち砕かれなければならなかった。
事実よりも明暸《めいりょう》な想像の一幕《ひとまく》を、描くともなく頭の中に描き出した津田は、突然ぞっとして我に返った。もしそんな馬鹿げた立ち廻りが実際生活の表面に現われたらどうしようと考えた。彼は羞恥《しゅうち》と屈辱を遠くの方に感じた。それを象徴するために、頬《ほお》の内側が熱《ほて》って来るような気さえした。
しかし彼の批判はそれぎり先へ進めなかった。他《ひと》に対して面目《めんぼく》を失う事、万一そんな不始末をしでかしたら大変だ。これが彼の倫理観の根柢《こんてい》に横《よこた》わっているだけであった。それを切りつめると、ついに外聞が悪いという意味に帰着するよりほかに仕方がなかった。だから悪い奴《やつ》はただ小林になった。
「おれに何の不都合《ふつごう》がある。彼奴《あいつ》さえいなければ」
彼はこう云って想像の幕に登場した小林を責めた。そうして自分を不面目にするすべての責任を相手に背負《しょ》わせた。
夢のような罪人に宣告を下した後《あと》の彼は、すぐ心の調子を入れ代えて、紙入の中から一枚の名刺を出した。その裏に万年筆で、「僕は静養のため昨夜《さくや》ここへ来ました」と書いたなり首を傾けた。それから「あなたがおいでの事を今朝《けさ》聴きました」と付け足してまた考えた。
「これじゃ空々《そらぞら》しくっていけない、昨夜《ゆうべ》会った事も何とか書かなくっちゃ」
しかし当《あた》り障《さわ》りのないようにそこへ触れるのはちょっと困難であった。第一書く事が複雑になればなるほど、文字が多くなって一枚の名刺では事が足りなくなるだけであった。彼はなるべく淡泊《あっさり》した口上を伝えたかった。したがって小面倒な封書などは使いたくなかった。
思いついたように違《ちが》い棚《だな》の上を眺めた彼は、まだ手をつけなかった吉川夫人の贈物が、昨日《きのう》のままでちゃんと載せてあるのを見て、すぐそれを下へ卸《おろ》した。彼は果物籃《くだものかご》の葢《ふた》の間へ、「御病気はいかがですか。これは吉川の奥さんからのお見舞です」と書いた名刺を挿《さ》し込んだ後《あと》で、下女を呼んだ。
「宅《うち》に関さんという方がおいでだろう」
今朝給仕をしたのと同じ下女は笑い出した。
「関さんが先刻《さっき》お話した奥さんの事ですよ」
「そうか。じゃその奥さんでいいから、これを持って行って上げてくれ。そうしてね、もしお差支えがなければちょっとお目にかかりたいって」
「へえ」
下女はすぐ果物籃を提《さ》げて廊下へ出た。
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