返事を待ち受ける間の津田は居据《いすわ》りの悪い置物のように落ちつかなかった。ことにすぐ帰って来《く》べきはずの下女が思った通りすぐ帰って来ないので、彼はなおの事心を遣《つか》った。
「まさか断るんじゃあるまいな」
彼が吉川夫人の名を利用したのは、すでに万一を顧慮したからであった。夫人とそうして彼女の見舞品、この二つは、それを届ける津田に対して、清子の束縛を解《と》く好い方便に違《ちがい》なかった。単に彼と応接する煩《わずら》わしさ、もしくはそれから起り得る嫌疑《けんぎ》を避けようとするのが彼女の当体《とうたい》であったにしたところで、果物籃《くだものかご》の礼はそれを持って来た本人に会って云うのが、順であった。誰がどう考えても無理のない名案を工夫したと信ずるだけに、下女の遅いのを一層|苦《く》にしなければならなかった彼は、ふかしかけた煙草《たばこ》を捨てて、縁側へ出たり、何のためとも知れず、黙って池の中を動いている緋鯉《ひごい》を眺めたり、そこへしゃがんで、軒下に寝ている犬の鼻面《はなづら》へ手を延ばして見たりした。やっとの事で、下女の足音が廊下の曲り角に聴《きこ》えた時に、わざと取り繕《つくろ》った余裕を外側へ示したくなるほど、彼の心はそわそわしていた。
「どうしたね」
「お待遠さま。大変遅かったでしょう」
「なにそうでもないよ」
「少しお手伝いをしていたもんですから」
「何の?」
「お部屋を片づけてね、それから奥さんの御髪《おぐし》を結《い》って上げたんですよ。それにしちゃ早いでしょう」
津田は女の髷《まげ》がそんなに雑作《ぞうさ》なく結《ゆ》える訳のものでないと思った。
「銀杏返《いちょうがえ》しかい、丸髷《まるまげ》かい」
下女は取り合わずにただ笑い出した。
「まあ行って御覧なさい」
「行って御覧なさいって、行っても好いのかい。その返事を先刻《さっき》からこうして待ってるんじゃないか」
「おやどうもすみません、肝心《かんじん》のお返事を忘れてしまって。――どうぞおいで下さいましって」
やっと安心した津田は、立上りながらわざと冗談半分《じょうだんはんぶん》に駄目《だめ》を押した。
「本当かい。迷惑じゃないかね。向《むこう》へ行ってから気の毒な思いをさせられるのは厭《いや》だからね」
「旦那様《だんなさま》はずいぶん疑《うたぐ》り深《ぶか》い方《かた》ですね。それじゃ奥さんもさぞ――」
「奥さんとは誰だい、関の奥さんかい、それとも僕の奥さんかい」
「どっちだか解ってるじゃありませんか」
「いや解らない」
「そうでございますか」
兵児帯《へこおび》を締め直した津田の後《うし》ろへ廻った下女は、室《へや》を出ようとする背中から羽織をかけてくれた。
「こっちかい」
「今御案内を致します」
下女は先へ立った。夢遊病者《むゆうびょうしゃ》として昨夕《ゆうべ》彷徨《さまよ》った記憶が、例の姿見《すがたみ》の前へ出た時、突然津田の頭に閃《ひら》めいた。
「ああここだ」
彼は思わずこう云った。事情を知らない下女は無邪気に訊《き》き返した。
「何がです」
津田はすぐごまかした。
「昨夕僕が幽霊に出会ったのはここだというのさ」
下女は変な顔をした。
「馬鹿をおっしゃい。宅《うち》に幽霊なんか出るもんですか。そんな事をおっしゃると――」
客商売をする宿に対して悪い洒落《しゃれ》を云ったと悟った津田は、賢《かし》こく二階を見上げた。
「この上だろう、関さんのお室は」
「ええ、よく知ってらっしゃいますね」
「うん、そりゃ知ってるさ」
「天眼通《てんがんつう》ですね」
「天眼通じゃない、天鼻通《てんびつう》と云って万事鼻で嗅《か》ぎ分《わ》けるんだ」
「まるで犬見たいですね」
階子段《はしごだん》の途中で始まったこの会話は、上《あが》り口《くち》の一番近くにある清子の部屋からもう聴き取れる距離にあった。津田は暗《あん》にそれを意識した。
「ついでに僕が関さんの室を嗅ぎ分けてやるから見ていろ」
彼は清子の室の前へ来て、ぱたりとスリッパーの音を止《と》めた。
「ここだ」
下女は横眼で津田の顔を睨《にら》めるように見ながら吹き出した。
「どうだ当ったろう」
「なるほどあなたの鼻はよく利《き》きますね。猟犬《りょうけん》よりたしかですよ」
下女はまた面白そうに笑ったが、室の中からはこの賑《にぎ》やかさに対する何の反応も出て来なかった。人がいるかいないかまるで分らない内側は、始めと同じように索寞《ひっそり》していた。
「お客さまがいらっしゃいました」
下女は外部《そと》から清子に話しかけながら、建てつけの好い障子《しょうじ》をすうと開けてくれた。
「御免下さい」
一言《いちごん》の挨拶《あいさつ》と共に室《へや》の中に入った津田はおやと思った。彼は自分の予期通り清子をすぐ眼の前に見出し得なかった。
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