その時不意にがらがらと開けられた硝子戸《ガラスど》の音が、周囲《あたり》をまるで忘れて、自分の中にばかり頭を突込《つっこ》んでいた津田をはっと驚ろかした。彼は思わず首を上げて入口を見た。そうしてそこに半身を現わしかけた婦人の姿を湯気のうちに認めた時、彼の心臓は、合図の警鐘のように、どきんと打った。けれども瞬間に起った彼の予感は、また瞬間に消える事ができた。それは本当の意味で彼を驚ろかせに来た人ではなかった。
生れてからまだ一度も顔を合せた覚《おぼえ》のないその婦人は、寝掛《ねがけ》と見えて、白昼なら人前を憚《はば》かるような慎《つつ》しみの足りない姿を津田の前に露《あら》わした。尋常の場合では小袖《こそで》の裾《すそ》の先にさえ出る事を許されない、長い襦袢《じゅばん》の派手《はで》な色が、惜気《おしげ》もなく津田の眼をはなやかに照した。
婦人は温泉煙《ゆけむり》の中に乞食《こじき》のごとく蹲踞《うずくま》る津田の裸体姿《はだかすがた》を一目見るや否や、いったん入りかけた身体《からだ》をすぐ後《あと》へ引いた。
「おや、失礼」
津田は自分の方で詫《あや》まるべき言葉を、相手に先へ奪《と》られたような気がした。すると階子段《はしごだん》を下りる上靴《スリッパー》の音がまた聴こえた。それが硝子戸の前でとまったかと思うと男女の会話が彼の耳に入った。
「どうしたんだ」
「誰か入ってるの」
「塞《ふさ》がってるのか。好いじゃないか、こんでさえいなければ」
「でも……」
「じゃ小さい方へ入るさ。小さい方ならみんな空《あ》いてるだろう」
「勝《かつ》さんはいないかしら」
津田はこの二人づれのために早く出てやりたくなった。同時に是非彼の入っている風呂へ入らなければ承知ができないといった調子のどこかに見える婦人の態度が気に喰《く》わなかった。彼はここへ入りたければ御勝手にお入んなさい、御遠慮には及びませんからという度胸を据《す》えて、また浴槽の中へ身体を漬《つ》けた。
彼は背の高い男であった。長い足を楽に延ばして、それを温泉《ゆ》の中で上下《うえした》へ動かしながら、透《す》き徹《とお》るもののうちに、浮いたり沈んだりする肉体の下肢《かし》を得意に眺めた。
時に突然婦人の要する勝さんらしい人の声がし出した。
「今晩は。大変お早うございますね」
勝さんのこの挨拶《あいさつ》には男の答があった。
「うん、あんまり退屈だから今日は早く寝ようと思ってね」
「へえ、もうお稽古《けいこ》はお済みですか」
「お済みって訳でもないが」
次には女の言葉が聴こえた。
「勝さん、そこは塞《ふさ》がってるのね」
「おやそうですか」
「どこか新らしく拵《こしら》えたのはないの」
「ございます。その代り少し熱いかも知れませんよ」
二人を案内したらしい風呂場の戸の開《あ》く音が、向うの方でした。かと思うと、また津田の浴槽《よくそう》の入口ががらりと鳴った。
「今晩は」
四角な顔の小作りな男が、またこう云いながら入って来た。
「旦那《だんな》流しましょう」
彼はすぐ流しへ下り立って、小判なりの桶《おけ》へ湯を汲んだ。津田は否応《いやおう》なしに彼に背中を向けた。
「君が勝さんてえのかい」
「ええ旦那はよく御承知ですね」
「今|聴《き》いたばかりだ」
「なるほど。そう云えば旦那も今見たばかりですね」
「今来たばかりだもの」
勝さんはははあと云って笑い出した。
「東京からおいでですか」
「そうだ」
勝さんは何時《なんじ》の下りだの、上りだのという言葉を遣《つか》って、津田に正確な答えをさせた。それから一人で来たのかとか、なぜ奥さんを伴《つ》れて来なかったのかとか、今の夫婦ものは浜の生糸屋《きいとや》さんだとか、旦那が細君に毎晩義太夫を習っているんだとか、宅《うち》のお上《かみ》さんは長唄《ながうた》が上手だとか、いろいろの問をかけると共に、いろいろの知識を供給した。聴かないでもいい事まで聴かされた津田には、勝さんの触れないものが、たった一つしかないように思われた。そうしてその触れないものは取《とり》も直《なお》さず清子という名前であった。偶然から来たこの結果には、津田にとって多少の物足らなさが含まれていた。もちろん津田の方でも水を向ける用意もなかった。そんな暇のないうちに、勝さんはさっさとしゃべるだけしゃべって、洗う方を切り上げてしまった。
「どうぞごゆっくり」
こう云って出て行った勝さんの後影を見送った津田にも、もうゆっくりする必要がなかった。彼はすぐ身体を拭いて硝子戸《ガラスど》の外へ出た。しかし濡手拭《ぬれてぬぐい》をぶら下げて、風呂場の階子段《はしごだん》を上《あが》って、そこにある洗面所と姿見《すがたみ》の前を通り越して、廊下を一曲り曲ったと思ったら、はたしてどこへ帰っていいのか解らなくなった。
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