2008年11月7日金曜日

百七

 三人は妙な羽目に陥《おちい》った。行《いき》がかり上《じょう》一種の関係で因果《いんが》づけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。席を外《はず》す事は無論できなくなった。彼らはそこへ坐《すわ》ったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。
 しかも傍《はた》から見たその問題はけっして重要なものとは云えなかった。遠くから冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかった。彼らは他《ひと》から注意を受けるまでもなくよくそれを心得ていた。けれども彼らは争わなければならなかった。彼らの背後《せなか》に背負《しょ》っている因縁《いんねん》は、他人に解らない過去から複雑な手を延ばして、自由に彼らを操《あやつ》った。
 しまいに津田とお秀の間に下《しも》のような問答が起った。
「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」
「置いて行きたければ置いといでよ」
「だから取るようにして取って下さいな」
「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと淡泊《たんぱく》に云っちまったらいいじゃないか」
「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。つまり兄妹《きょうだい》らしくして下されば、それでいいというだけです。それからお父さんにすまなかったと本気に一口《ひとくち》おっしゃりさえすれば、何でもないんです」
「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」
「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお詫《わび》じゃありません。心からの後悔です」
 津田はたかがこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫|様《よう》が空々《そらぞら》しいとでも云うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前《いちにんまえ》の男だよ。そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えても御覧な」
「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
「欲しくないとは云わないさ」
「それでお父さんに謝罪《あやま》ったんでしょう」
「でなければ何も詫《あやま》る必要はないじゃないか」
「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」
 津田は口を閉じた。お秀はすぐ乗《の》しかかって行った。
「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」
「じゃお止《よ》しよ。何も無理に貰《もら》おうとは云わないんだから」
「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」
「いつ」
「先刻《さっき》からそう云っていらっしゃるんです」
「言がかりを云うな、馬鹿」
「言がかりじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」
 津田は一種|嶮《けわ》しい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪《ぞうお》が輝やいた。けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用《いりよう》だ。兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ」
 お秀の手先が怒りで顫《ふる》えた。両方の頬《ほお》に血が差した。その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。色が白いのでそれが一層|鮮《あざ》やかであった。しかし彼女の言葉|遣《づか》いだけはそれほど変らなかった。怒りの中《うち》に微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
「嫂《ねえ》さんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」
「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」
「ええ良人《うち》には絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別《べつ》ッこなのね」
「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」
「だって――」
 お延は皆まで云わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵《こしら》えるだけなのよ」
 彼女はこう云いながら、昨日《きのう》岡本の叔父《おじ》に貰って来た小切手を帯の間から出した。

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