2008年11月7日金曜日

百六

「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。嫂《あによめ》に対して何とか説明しなければならない位地《いち》に追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂を憎《にく》んだ。彼女から見たその時のお延ほど、空々《そらぞら》しいまたずうずうしい女はなかった。
「ええ良人《うち》は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。
「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」
「いったい何が強情なんだ」
「そりゃあたしにもよく解《わか》らないけれども」
「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
「そうね」
「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」
「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目《ききめ》がなければ仕方がありませんからね」
「じゃどこが強情なんだ」
「どこがってお聴《き》きになっても駄目《だめ》よ。あたしにもよく解らないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」
「馬鹿」
 馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。
「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを素直《すなお》にお取りにならないんです」
「素直にも義剛《ぎごわ》にも、取るにも取らないにも、お前の方でてんから出さないんじゃないか」
「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」
「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」
「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって厭《いや》ですもの」
「じゃどうすればいいんだ」
「解《わか》ってるじゃありませんか」
 三人はしばらく黙っていた。
 突然津田が云い出した。
「お延お前お秀に詫《あや》まったらどうだ」
 お延は呆《あき》れたように夫を見た。
「なんで」
「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の料簡《りょうけん》では」
「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」
 お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその後《あと》を遮《さえぎ》った。
「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつ嫂《ねえ》さんに詫まって貰《もら》いたいと云いました。そんな言がかりを捏造《ねつぞう》されては、あたしが嫂さんに対して面目《めんぼく》なくなるだけじゃありませんか」
 沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口を利《き》かなかった。お延には利く必要がなかった。お秀は利く準備をした。
「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」
 お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。
「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」
「あたしにはどっちだって同《おん》なじ事です」
「そうかい。そんなら仕方がない。それで」
「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッついた結果、兄さんや嫂《ねえ》さんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしにはいかにも辛《つら》いんです。だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざここへ持って来たと云うんです。実は昨日《きのう》嫂さんから電話がかかった時、すぐ来《き》ようと思ったんですけれども、朝のうちは宅《うち》に用があったし、午《ひる》からはその用で銀行へ行く必要ができたものですから、つい来損《きそこ》なっちまったんです。元々わずかな金額ですから、それについてとやかく云う気はちっともありませんけれども、あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」
 お延はなお黙っている津田の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「あなた何とかおっしゃいよ」
「何て」
「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」
「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ厭《いや》だよ」
「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し癇走《かんばし》った声で弁解した。お延は元通りの穏やかな調子を崩《くず》さなかった。
「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがお厭《いや》なら、お金はいただかないでいいから、ただお礼だけをおっしゃいよ」
 お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。

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