お延は日のとぼとぼ頃に宅へ帰った。電車から降りて一丁ほどの所を、身に染《し》みるような夕暮の靄《もや》に包まれた後の彼女には、何よりも火鉢《ひばち》の傍《はた》が恋しかった。彼女はコートを脱ぐなりまずそこへ坐《すわ》って手を翳《かざ》した。
しかし彼女にはほとんど一分の休憩時間も与えられなかった。坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取った。手紙の文句は固《もと》より簡単であった。彼女は封を切る手数とほとんど同じ時間で、それを読み下す事ができた。けれども読んだ後の彼女は、もう読む前の彼女ではなかった。わずか三行ばかりの言葉は一冊の書物より強く彼女を動かした。一度に外から持って帰った気分に火を点《つ》けたその書翰《しょかん》の前に彼女の心は躍《おど》った。
「今日病院へ来ていけないという意味はどこにあるだろう」
それでなくっても、もう一遍出直すはずであった彼女は、時間に関《かま》う余裕さえなかった。彼女は台所から膳《ぜん》を運んで来たお時を驚ろかして、すぐ立ち上がった。
「御飯は帰ってからにするよ」
彼女は今脱いだばかりのコートをまた羽織って、門を出た。しかし電車通りまで歩いて来た時、彼女の足は、また小路《こうじ》の角でとまった。彼女はなぜだか病院へ行くに堪《た》えないような気がした。この様子では行ったところで、役に立たないという思慮が不意に彼女に働らきかけた。
「夫の性質では、とても卒直にこの手紙の意味さえ説明してはくれまい」
彼女は心細くなって、自分の前を右へ行ったり左へ行ったりする電車を眺めていた。その電車を右へ利用すれば病院で、左へ乗れば岡本の宅《うち》であった。いっそ当初の計画をやめて、叔父《おじ》の所へでも行こうかと考えついた彼女は、考えつくや否や、すぐその方面に横《よこた》わる困難をも想像した。岡本へ行って相談する以上、彼女は打ち明け話をしなければならなかった。今まで隠していた夫婦関係の奥底を、曝《さら》け出さなければ、一歩も前へ出る訳には行かなかった。叔父と叔母の前に、自分の眼が利《き》かなかった自白を綺麗《きれい》にしなければならなかった。お延はまだそれほどの恥を忍ぶまでに事件は逼《せま》っていないと考えた。復活の見込が充分立たないのに、酔興《すいきょう》で自分の虚栄心を打ち殺すような正直は、彼女の最も軽蔑《けいべつ》するところであった。
彼女は決しかねて右と左へ少しずつ揺れた。彼女がこんなに迷っているとはまるで気のつかない津田は、この時|床《とこ》の上に起き上って、平気で看護婦の持って来た膳に向いつつあった。先刻《さっき》お秀から電話のかかった時、すでにお延の来訪を予想した彼は、吉川夫人と入れ代りに細君の姿を病室に見るべく暗《あん》に心の調子を整えていたところが、その細君は途中から引き返してしまったので、軽い失望の間に、夕食《ゆうめし》の時間が来るまで、待ち草臥《くたび》れたせいか、看護婦の顔を見るや否や、すぐ話しかけた。
「ようやく飯か。どうも一人でいると日が長くって困るな」
看護婦は体《なり》の小《ち》さい血色の好くない女であった。しかし年頃はどうしても津田に鑑定のつかない妙な顔をしていた。いつでも白い服を着けているのが、なおさら彼女を普通の女の群《むれ》から遠ざけた。津田はつねに疑った。――この人が通常の着物を着る時に、まだ肩上《かたあげ》を付けているだろうか、または除《と》っているだろうか。彼はいつか真面目《まじめ》にこんな質問を彼女にかけて見た事があった。その時彼女はにやりと笑って、「私はまだ見習です」と答えたので、津田はおおよその見当を立てたくらいであった。
膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかった。
「御退屈さま」と云って、にやにや笑った彼女は、すぐ後《あと》を付け足した。
「今日は奥さんはお見えになりませんね」
「うん、来ないよ」
津田の口の中にはもう焦《こ》げた麺麭《パン》がいっぱい入っていた。彼はそれ以上何も云う事ができなかった。しかし看護婦の方は自由であった。
「その代り外《ほか》のお客さまがいらっしゃいましたね」
「うん。あのお婆さんだろう。ずいぶん肥《ふと》ってるね、あの奥さんは」
看護婦が悪口《わるくち》の相槌《あいづち》を打つ気色《けしき》を見せないので、津田は一人でしゃべらなければならなかった。
「もっと若い綺麗《きれい》な人が、どんどん見舞に来てくれると病気も早く癒《なお》るんだがな」と云って看護婦を笑わせた彼は、すぐ彼女から冷嘲《ひや》かし返された。
「でも毎日女の方ばかりいらっしゃいますね。よっぽど間《ま》がいいと見えて」
彼女は小林の来た事を知らないらしかった。
「昨日《きのう》いらしった奥さんは大変お綺麗ですね」
「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。どこか似ているかね、僕と」
看護婦は似ているとも似ていないとも答えずに、やっぱりにやにやしていた。
0 件のコメント:
コメントを投稿