この時お延の足はすでに病院に向って動いていた。
堀の宅《うち》から医者の所へ行くには、門を出て一二丁町東へ歩いて、そこに丁字形《ていじけい》を描いている大きな往来をまた一つ向うへ越さなければならなかった。彼女がこの曲り角へかかった時、北から来た一台の電車がちょうど彼女の前、方角から云えば少し筋違《すじかい》の所でとまった。何気なく首を上げた彼女は見るともなしにこちら側《がわ》の窓を見た。すると窓硝子《まどガラス》を通して映る乗客の中に一人の女がいた。位地《いち》の関係から、お延はただその女の横顔の半分もしくは三分の一を見ただけであったが、見ただけですぐはっと思った。吉川夫人じゃないかという気がたちまち彼女の頭を刺戟《しげき》したからである。
電車はじきに動き出した。お延は自分の物色に満足な時間を与えずに走り去ったその後影《うしろかげ》をしばらく見送ったあとで、通りを東側へ横切った。
彼女の歩く往来はもう横町だけであった。その辺の地理に詳しい彼女は、いくつかの小路《こうじ》を右へ折れたり左へ曲ったりして、一番近い道をはやく病院へ行き着くつもりであった。けれども電車に会った後《あと》の彼女の足は急に重くなった。距離にすればもう二三丁という所まで来た時、彼女は病院へ寄らずに、いったん宅《うち》へ帰ろうかと思い出した。
彼女の心は堀の門を出た折からすでに重かった。彼女はむやみにお秀を突ッ付いて、かえってやり損《そく》なった不快を胸に包んでいた。そこには大事を明らさまに握る事ができずに、裏からわざわざ匂《にお》わせられた羽痒《はが》ゆさがあった。なまじいそれを嗅《か》ぎつけた不安の色も、前よりは一層濃く染めつけられただけであった。何よりも先だつのは、こっちの弱点を見抜かれて、逆《さかさ》まに相手から翻弄《ほんろう》されはしなかったかという疑惑であった。
お延はそれ以上にまだ敏《さと》い気を遠くの方まで廻していた。彼女は自分に対して仕組まれた謀計《はかりごと》が、内密にどこかで進行しているらしいとまで癇《かん》づいた。首謀者は誰にしろ、お秀がその一人である事は確《たしか》であった。吉川夫人が関係しているのも明かに推測された。――こう考えた彼女は急に心細くなった。知らないうちに重囲《じゅうい》のうちに自分を見出《みいだ》した孤軍《こぐん》のような心境が、遠くから彼女を襲って来た。彼女は周囲《あたり》を見廻した。しかしそこには夫を除いて依《たよ》りになるものは一人もいなかった。彼女は何をおいてもまず津田に走らなければならなかった。その津田を疑ぐっている彼女にも、まだ信力は残っていた。どんな事があろうとも、夫だけは共謀者の仲間入はよもしまいと念じた彼女の足は、堀の門を出るや否や、ひとりでにすぐ病院の方へ向いたのである。
その心理作用が今|喰《く》いとめられなければならなくなった時、通りで会った電車の影をお延は腹の底から呪《のろ》った。もし車中の人が吉川夫人であったとすれば、もし吉川夫人が津田の所へ見舞に行ったとすれば、もし見舞に行ったついでに、――。いかに怜俐《りこう》なお延にも考える自由の与えられていないその後《あと》は容易に出て来なかった。けれども結果は一つであった。彼女の頭は急にお秀から、吉川夫人、吉川夫人から津田へと飛び移った。彼女は何がなしに、この三人を巴《ともえ》のように眺め始めた。
「ことによると三人は自分に感じさせない一種の電気を通わせ合っているかも知れない」
今まで避難場のつもりで夫の所へ駈け込もうとばかり思っていた彼女は考えざるを得なかった。
「この分じゃ、ただ行ったっていけない。行ってどうしよう」
彼女はどうしようという分別なしに歩いて来た事に気がついた。するとどんな態度で、どんな風に津田に会うのが、この場合最も有効だろうという問題が、さも重要らしく彼女に見え出して来た。夫婦のくせに、そんなよそ行《いき》の支度なんぞして何になるという非難をどこにも聴《き》かなかったので、いったん宅《うち》へ帰って、よく気を落ちつけて、それからまた出直すのが一番の上策だと思い極《きわ》めた彼女は、ついにもう五六分で病院へ行き着こうという小路《こうじ》の中ほどから取って返した。そうして柳の木の植《うわ》っている大通りから賑《にぎ》やかな往来まで歩いてすぐ電車へ乗った。
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