2008年11月6日木曜日

百六十九

 汽車が目的の停車場《ステーション》に着く少し前から、三人によって気遣《きづか》われた天候がしだいに穏かになり始めた時、津田は雨の収《おさ》まり際《ぎわ》の空を眺めて、そこに忙がしそうな雲の影を認めた。その雲は汽車の走る方角と反対の側《がわ》に向って、ずんずん飛んで行った。そうして後《あと》から後からと、あたかも前に行くものを追《おっ》かけるように、隙間《すきま》なく詰《つ》め寄せた。そのうち動く空の中に、やや明るい所ができてきた。ほかの部分より比較的薄く見える箇所がしだいに多くなった。就中《なかんずく》一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配《けはい》を示した。
 思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また先刻《さっき》会った二人伴《ふたりづれ》の男を見出した。はたして彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気をつけて彼らの手荷物を注意した。けれども彼らの雨曝《あまざら》しになるのを苦《く》に病んだほどの大嵩《おおがさ》なものはどこにも見当らなかった。のみならず、爺《じい》さんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。
「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」
「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」
「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で訊《き》いてみるんだ。だが大体《たいてい》間違《まちがい》はないよ。空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから」
 津田は少しおかしくなった。すると爺さんがすぐ話しかけた。
「あなたも湯治場《とうじば》へいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いましたよ、先刻から」
「なぜですか」
「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」
 彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶《つれ》を顧みた。中折《なかおれ》の人は仕方なしに「ああ」と答えた。
 この天眼通《てんがんつう》に苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁《かいかつ》な爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体《からだ》一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向《あつらえむき》だあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋《がっさいぶくろ》とこの大将のあの鞄《かばん》を差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」
 大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
 電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝《こ》らした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食《ちゅうじき》を認《した》ためた。時間から云って、平常より一時間以上も後《おく》れていたその昼食は、膳《ぜん》を貪《むさ》ぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。けれども発車は目前に逼《せま》っていた。彼は箸《はし》を投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。
 基点に当る停車場《ステーション》は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭《つり》を受取ってすぐ表へ出た。切符に鋏《はさみ》を入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものがほとんどなかった。五六歩動くとすぐ足をかける階段へ届いてしまった。彼は車室のなかで、また先刻《さっき》の二人連れと顔を合せた。
「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」
 爺《じい》さんは腰をずらして津田のために、彼の腕に抱えて来た膝《ひざ》かけを敷く余地を拵《こしら》えてくれた。
「今日は空《す》いてて結構です」
 爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八|二月《ふたつき》に渉《わた》って、この線路に集ってくる湯治客《とうじきゃく》の、どんなに雑沓《ざっとう》するかをさも面白そうに例の調子で話して聴《き》かせた後《あと》で、自分の同伴者を顧みた。
「あんな時に女なんか伴《つ》れてくるのは実際罪だよ。尻《しり》が大きいから第一乗り切れねえやね。そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨《すし》のように押しつめられてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」
 彼は自分の傍《そば》に腰をかけている婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。

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