旅費を貰《もら》って、勤向《つとめむき》の都合をつけて貰って、病後の身体を心持の好い温泉場で静養するのは、誰にとっても望ましい事に違なかった。ことに自己の快楽を人間の主題にして生活しようとする津田には滅多《めった》にない誂《あつら》え向《む》きの機会であった。彼に云わせると、見す見すそれを取《と》り外《はず》すのは愚《ぐ》の極であった。しかしこの場合に附帯している一種の条件はけっして尋常のものではなかった。彼は顧慮した。
彼を引きとめる心理作用の性質は一目暸然《いちもくりょうぜん》であった。けれども彼はその働きの顕著な力に気がついているだけで、その意味を返照《へんしょう》する遑《いとま》がなかった。この点においても夫人の方が、彼自身よりもかえってしっかりした心理の観察者であった。二つ返事で断行を誓うと思った津田のどこか渋っている様子を見た夫人はこう云った。
「あなたは内心行きたがってるくせに、もじもじしていらっしゃるのね。それが私《わたし》に云わせると、男らしくないあなたの一番悪いところなんですよ」
男らしくないと評されても大した苦痛を感じない津田は答えた。
「そうかも知れませんけれども、少し考えて見ないと……」
「その考える癖があなたの人格に祟《たた》って来るんです」
津田は「へえ?」と云って驚ろいた。夫人は澄ましたものであった。
「女は考えやしませんよ。そんな時に」
「じゃ考える私は男らしい訳じゃありませんか」
この答えを聴《き》いた時、夫人の態度が急に嶮《けわ》しくなった。
「そんな生意気《なまいき》な口応《くちごた》えをするもんじゃありません。言葉だけで他《ひと》をやり込《こ》めればどこがどうしたというんです、馬鹿らしい。あなたは学校へ行ったり学問をしたりした方《かた》のくせに、まるで自分が見えないんだからお気の毒よ。だから畢竟《ひっきょう》清子さんに逃げられちまったんです」
津田はまた「えッ?」と云った。夫人は構わなかった。
「あなたに分らなければ、私が云って聴《き》かせて上げます。あなたがなぜ行きたがらないか、私にはちゃんと分ってるんです。あなたは臆病なんです。清子さんの前へ出られないんです」
「そうじゃありません。私は……」
「お待ちなさい。――あなたは勇気はあるという気なんでしょう。しかし出るのは見識《けんしき》に拘《かか》わるというんでしょう。私から云えば、そう見識ばるのが取りも直さずあなたの臆病なところなんですよ、好《よ》ござんすか。なぜと云って御覧なさい。そんな見識はただの見栄《みえ》じゃありませんか。よく云ったところで、上《うわ》っ面《つら》の体裁《ていさい》じゃありませんか。世間に対する手前と気兼《きがね》を引いたら後に何が残るんです。花嫁さんが誰も何とも云わないのに、自分できまりを悪くして、三度の御飯を控えるのと同《おん》なじ事よ」
津田は呆気《あっけ》に取られた。夫人の小言《こごと》はまだ続いた。
「つまり色気が多過ぎるから、そんな入《い》らざるところに我《が》を立てて見たくなるんでしょう。そうしてそれがあなたの己惚《おのぼれ》に生れ変って変なところへ出て来るんです」
津田は仕方なしに黙っていた。夫人は容赦なく一歩進んでその己惚を説明した。
「あなたはいつまでも品《ひん》よく黙っていようというんです。じっと動かずにすまそうとなさるんです。それでいて内心ではあの事が始終《しじゅう》苦《く》になるんです。そこをもう少し押して御覧なさいな。おれがこうしているうちには、今に清子の方から何か説明して来るだろう来るだろうと思って――」
「そんな事を思ってるもんですか、なんぼ私《わたくし》だって」
「いえ、思っているのと同《おん》なじだというのです。実際どこにも変りがなければ、そう云われたってしようがないじゃありませんか」
津田にはもう反抗する勇気がなかった。機敏な夫人はそこへつけ込んだ。
「いったいあなたはずうずうしい性質《たち》じゃありませんか。そうしてずうずうしいのも世渡りの上じゃ一徳《いっとく》だぐらいに考えているんです」
「まさか」
「いえ、そうです。そこがまだ私《わたし》に解らないと思ったら、大間違です。好いじゃありませんか、ずうずうしいで、私はずうずうしいのが好きなんだから。だからここで持前のずうずうしいところを男らしく充分発揮なさいな。そのために私がせっかく骨を折って拵《こしら》えて来たんだから」
「ずうずうしさの活用ですか」と云った津田は言葉を改めた。
「あの人は一人で行ってるんですか」
「無論一人です」
「関は?」
「関さんはこっちよ。こっちに用があるんですもの」
津田はようやく行く事に覚悟をきめた。
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