準備はほぼ出来上った。要点はそろそろ津田の前に展開されなければならなかった。夫人は機を見てしだいにそこへ入って行った。
「そんならもっと男らしくしちゃどうです」という漠然《ばくぜん》たる言葉が、最初に夫人の口を出た。その時津田はまたかと思った。先刻《さっき》から「男らしくしろ」とか「男らしくない」とかいう文句を聴《き》かされるたびに、彼は心の中で暗《あん》に夫人を冷笑した。夫人の男らしいという意味ははたしてどこにあるのだろうと疑ぐった。批判的な眼を拭《ぬぐ》って見るまでもなく、彼女は自分の都合ばかりを考えて、津田をやり込めるために、勝手なところへやたらにこの言葉を使うとしか解釈できなかった。彼は苦笑しながら訊《き》いた。
「男らしくするとは?――どうすれば男らしくなれるんですか」
「あなたの未練を晴らすだけでさあね。分り切ってるじゃありませんか」
「どうして」
「全体どうしたら晴らされると思ってるんです、あなたは」
「そりゃ私には解りません」
夫人は急に勢《きお》い込んだ。
「あなたは馬鹿ね。そのくらいの事が解らないでどうするんです。会って訊くだけじゃありませんか」
津田は返事ができなかった。会うのがそれほど必要にしたところで、どんな方法でどこでどうして会うのか。その方が先決問題でなければならなかった。
「だから私《わたし》が今日わざわざここへ来たんじゃありませんか」と夫人が云った時、津田は思わず彼女の顔を見た。
「実は疾《と》うから、あなたの料簡《りょうけん》をよく伺って見たいと思ってたところへね、今朝《けさ》お秀さんがあの事で来たもんだから、それでちょうど好い機会だと思って出て来たような訳なんですがね」
腹に支度の整わない津田の頭はただまごまごするだけであった。夫人はそれを見澄《みすま》してこういった。
「誤解しちゃいけませんよ。私は私、お秀さんはお秀さんなんだから。何もお秀さんに頼まれて来たからって、きっとあの方《かた》の肩ばかり持つとは限らないぐらいは、あなたにだって解るでしょう。先刻《さっき》も云った通り、私はこれでもあなたの同情者ですよ」
「ええそりゃよく心得ています」
ここで問答に一区切《ひとくぎり》を付けた夫人は、時を移さず要点に達する第二の段落に這入《はい》り込んで行った。
「清子さんが今どこにいらっしゃるか、あなた知ってらっしって」
「関の所にいるじゃありませんか」
「そりゃ不断の話よ。私《わたし》のいうのは今の事よ。今どこにいらっしゃるかっていうのよ。東京か東京でないか」
「存じません」
「あてて御覧なさい」
津田はあてっこをしたってつまらないという風をして黙っていた。すると思いがけない場所の名前が突然夫人の口から点出された。一日がかりで東京から行かれるかなり有名なその温泉場の記憶は、津田にとってもそれほど旧《ふる》いものではなかった。急にその辺《あたり》の景色《けしき》を思い出した彼は、ただ「へええ」と云ったぎり、後をいう智恵が出なかった。
夫人は津田のために親切な説明を加えてくれた。彼女の云うところによると、目的の人は静養のため、当分そこに逗留《とうりゅう》しているのであった。夫人は何で静養がその人に必要であるかをさえ知っていた。流産後の身体《からだ》を回復するのが主眼だと云って聴《き》かせた夫人は、津田を見て意味ありげに微笑した。津田は腹の中でほぼその微笑を解釈し得たような気がした。けれどもそんな事は、夫人にとっても彼にとっても、目前の問題ではなかった。一口の批評を加える気にもならなかった彼は、黙って夫人の聴き手になるつもりでおとなしくしていた。同時に夫人は第三の段落に飛び移った。
「あなたもいらっしゃいな」
津田の心はこの言葉を聴く前からすでに揺《うご》いていた。しかし行こうという決心は、この言葉を聴いた後《あと》でもつかなかった。夫人は一煽《ひとあお》りに煽った。
「いらっしゃいよ。行ったって誰の迷惑になる事でもないじゃありませんか。行って澄ましていればそれまででしょう」
「それはそうです」
「あなたはあなたで始めっから独立なんだから構った事はないのよ。遠慮だの気兼《きがね》だのって、なまじ余計なものを荷にし出すと、事が面倒になるだけですわ。それにあなたの病気には、ここを出た後で、ああいう所へちょっと行って来る方がいいんです。私に云わせれば、病気の方だけでも行く必要は充分あると思うんです。だから是非いらっしゃい。行って天然自然来たような顔をして澄ましているんです。そうして男らしく未練の片《かた》をつけて来るんです」
夫人は旅費さえ出してやると云って津田を促《うな》がした。
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