しかし彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に調戯《からか》った。
「兄妹喧嘩《きょうだいげんか》をしたんだって云うじゃないか。先生も奥さんも、お秀さんにしゃべりつけられて弱ってたぜ」
「君はまた傍《そば》でそれを聴《き》いていたのか」
小林は苦笑しながら頭を掻《か》いた。
「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ天然自然《てんねんしぜん》耳へ入ったようなものだ。何しろしゃべる人がお秀さんで、しゃべらせる人が先生だからな」
お秀にはどこか片意地で一本調子な趣《おもむき》があった。それに一種の刺戟《しげき》が加わると、平生の落ちつきが全く無くなって、不断と打って変った猛烈さをひょっくり出現させるところに、津田とはまるで違った特色があった。叔父はまた叔父で、何でも構わず底の底まで突きとめなければ承知のできない男であった。単に言葉の上だけでもいいから、前後一貫して俗にいう辻褄《つじつま》が合う最後まで行きたいというのが、こういう場合相手に対する彼の態度であった。筆の先で思想上の問題を始終《しじゅう》取り扱かいつけている癖が、活字を離れた彼の日常生活にも憑《の》り移ってしまった結果は、そこによく現われた。彼は相手にいくらでも口を利かせた。その代りまたいくらでも質問をかけた。それが或程度まで行くと、質問という性質を離れて、詰問に変化する事さえしばしばあった。
津田は心の中で、この叔父と妹と対坐《たいざ》した時の様子を想像した。ことによるとそこでまた一波瀾《ひとはらん》起したのではあるまいかという疑《うたがい》さえ出た。しかし小林に対する手前もあるので、上部《うわべ》はわざと高く出た。
「おおかためちゃくちゃに僕の悪口でも云ったんだろう」
小林は御挨拶《ごあいさつ》にただ高笑いをした後で、こんな事を云った。
「だが君にも似合わないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」
「僕だからしたのさ。彼奴《あいつ》だって堀の前なら、もっと遠慮すらあね」
「なるほどそうかな。世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持った経験がないから、そっちのほうの消息はまるで解《わか》らないが、これでも妹はあるから兄妹の味ならよく心得ているつもりだ。君何だぜ。僕のような兄でも、妹と喧嘩なんかした覚はまだないぜ」
「そりゃ妹次第さ」
「けれどもそこはまた兄次第だろう」
「いくら兄だって、少しは腹の立つ場合もあるよ」
小林はにやにや笑っていた。
「だが、いくら君だって、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい」
「そりゃ当り前だよ。好んで誰が喧嘩《けんか》なんかするもんか。あんな奴《やつ》と」
小林はますます笑った。彼は笑うたびに一調子《ひとちょうし》ずつ余裕を生じて来た。
「蓋《けだ》しやむをえなかった訳だろう。しかしそれは僕の云う事だ。僕は誰と喧嘩したって構わない男だ。誰と喧嘩したって損をしっこない境遇に沈淪《ちんりん》している人間だ。喧嘩の結果がもしどこかにあるとすれば、それは僕の損にゃならない。何となれば、僕はいまだかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね。要するに喧嘩から起り得るすべての変化は、みんな僕の得《とく》になるだけなんだから、僕はむしろ喧嘩を希望してもいいくらいなものだ。けれども君は違うよ。君の喧嘩はけっして得にゃならない。そうして君ほどまた損得利害をよく心得ている男は世間にたんとないんだ。ただ心得てるばかりじゃない、君はそうした心得の下《もと》に、朝から晩まで寝たり起きたりしていられる男なんだ。少くともそうしなければならないと始終《しじゅう》考えている男なんだ。好いかね。その君にして――」
津田は面倒臭そうに小林を遮《さえ》ぎった。
「よし解《わか》った。解ったよ。つまり他《ひと》と衝突するなと注意してくれるんだろう。ことに君と衝突しちゃ僕の損になるだけだから、なるべく事を穏便《おんびん》にしろという忠告なんだろう、君の主意は」
小林は惚《とぼ》けた顔をしてすまし返った。
「何僕と? 僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ」
「もう解ったというのに」
「解ったらそれでいいがね。誤解のないように注意しておくが、僕は先刻《さっき》からお秀さんの事を問題にしているんだぜ、君」
「それも解ってるよ」
「解ってるって、そりゃ京都の事だろう。あっちが不首尾になるという意味だろう」
「もちろんさ」
「ところが君それだけじゃないぜ。まだほかにも響いて来るんだぜ、気をつけないと」
小林はそこで句を切って、自分の言葉の影響を試験するために、津田の顔を眺めた。津田ははたして平気でいる事ができなかった。
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