津田の好奇心は動いた。想像もほぼついた。けれどもそこへ折れ曲って行く事は彼の主意に背《そむ》いた。彼はただ夫人対お秀の関係を掘り返せばよかった。病気見舞を兼た夫人の用向《ようむき》も、無論それについての懇談にきまっていた。けれども彼女にはまた彼女に特有な趣《おもむき》があった。時間に制限のない彼女は、頼まれるまでもなく、機会さえあれば、他《ひと》の内輪に首を突ッ込んで、なにかと眼下《めした》、ことに自分の気に入った眼下の世話を焼きたがる代りに、到《いた》るところでまた道楽本位の本性を露《あら》わして平気であった。或時の彼女はむやみに急《せ》いて事を纏《まと》めようとあせった。そうかと思うと、ある時の彼女は、また正反対であった。わざわざべんべんと引ッ張るところに、さも興味でもあるらしい様子を見せてすましていた。鼠《ねずみ》を弄《もてあ》そぶ猫のようなこの時の彼女の態度が、たとい傍《はた》から見てどうあろうとも、自分では、閑散な時間に曲折した波瀾《はらん》を与えるために必要な優者の特権だと解釈しているらしかった。この手にかかった時の相手には、何よりも辛防《しんぼう》が大切であった。その代り辛防をし抜いた御礼はきっと来た。また来る事をもって彼女は相手を奨励した。のみならずそれを自分の倫理上の誇りとした。彼女と津田の間に取り換わされたこの黙契《もっけい》のために、津田の蒙《こうむ》った重大な損失が、今までにたった一つあった。その点で彼女が腹の中でいかに彼に対する責任を感じているかは、怜俐《れいり》な津田の見逃《みのが》すところでなかった。何事にも夫人の御意《ぎょい》を主眼に置いて行動する彼といえども、暗《あん》にこの強味だけは恃《たの》みにしていた。しかしそれはいざという万一の場合に保留された彼の利器に過ぎなかった。平生の彼は甘んじて猫の前の鼠となって、先方の思う通りにじゃらされていなければならなかった。この際の夫人もなかなか要点へ来る前に時間を費やした。
「昨日《きのう》秀子さんが来たでしょう。ここへ」
「ええ。参りました」
「延子さんも来たでしょう」
「ええ」
「今日は?」
「今日はまだ参りません」
「今にいらっしゃるんでしょう」
津田にはどうだか分らなかった。先刻《さっき》来るなという手紙を出した事も、夫人の前では云えなかった。返事を受け取らなかった勝手違も、実は気にかかっていた。
「どうですかしら」
「いらっしゃるか、いらっしゃらないか分らないの」
「ええ、よく分りません。多分来ないだろうとは思うんですが」
「大変冷淡じゃありませんか」
夫人は嘲《あざ》けるような笑い方をした。
「私がですか」
「いいえ、両方がよ」
苦笑した津田が口を閉じるのを待って、夫人の方で口を開いた。
「延子さんと秀子さんは昨日《きのう》ここで落ち合ったでしょう」
「ええ」
「それから何かあったのね、変な事が」
「別に……」
「空《そら》ッ惚《とぼ》けちゃいけません。あったらあったと、判然《はっきり》おっしゃいな、男らしく」
夫人はようやく持前の言葉|遣《づか》いと特色とを、発揮し出した。津田は挨拶《あいさつ》に困った。黙って少し様子を見るよりほかに仕方がないと思った。
「秀子さんをさんざん苛《いじ》めたって云うじゃありませんか。二人して」
「そんな事があるものですか。お秀の方が怒ってぷんぷん腹を立てて帰って行ったのです」
「そう。しかし喧嘩《けんか》はしたでしょう。喧嘩といったって殴《なぐ》り合《あい》じゃないけれども」
「それだってお秀のいうような大袈裟《おおげさ》なものじゃないんです」
「かも知れないけれども、多少にしろ有ったには有ったんですね」
「そりゃちょっとした行違《いきちがい》ならございました」
「その時あなた方は二人がかりで秀子さんを苛《いじ》めたでしょう」
「苛めやしません。あいつが耶蘇教《ヤソきょう》のような気※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]《きえん》を吐《は》いただけです」
「とにかくあなたがたは二人、向うは一人だったに違《ちがい》ないでしょう」
「そりゃそうかも知れません」
「それ御覧なさい。それが悪いじゃありませんか」
夫人の断定には意味も理窟《りくつ》もなかった。したがってどこが悪いんだか津田にはいっこう通じなかった。けれどもこういう場合にこんな風になって出て来る夫人の特色は、けっして逆《さか》らえないものとして、もう津田の頭に叩《たた》き込まれていた。素直《すなお》に叱られているよりほかに彼の途《みち》はなかった。
「そういうつもりでもなかったんですけれども、自然の勢《いきおい》で、いつかそうなってしまったんでしょう」
「でしょうじゃいけません。ですと判然《はっきり》おっしゃい。いったいこういうと失礼なようですが、あなたがあんまり延子さんを大事になさり過ぎるからよ」
津田は首を傾けた。
0 件のコメント:
コメントを投稿