二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。時々耳にする三角派《さんかくは》とか未来派《みらいは》とかいう奇怪な名称のほかに、彼は今までかつて聴《き》いた事のないような片仮名をいくつとなく聴かされた。その何処《いずこ》にも興味を見出《みい》だし得なかった彼は、会談の圏外《けんがい》へ放逐《ほうちく》されるまでもなく、自分から埒《らち》を脱《ぬ》け出したと同じ事であった。これだけでも一通り以上の退屈である上に、津田は厭《いや》がらせる積極的なものがまだ一つあった。彼は自分の眼前に見るこの二人、ことに小林を、むやみに新らしい芸術をふり廻したがる半可通《はんかつう》として、最初から取扱っていた。彼はこの偏見《プレジュジス》の上へ、乙《おつ》に識者ぶる彼らの態度を追加して眺めた。この点において無知な津田を羨《うら》やましがらせるのが、ほとんど二人の目的ででもあるように見え出した時、彼は無理にいったん落ちつけた腰をまた浮かしにかかった。すると小林がまた抑留した。
「もう直《じき》だ、いっしょに行くよ、少し待ってろ」
「いやあんまり遅くなるから……」
「何もそんなに他《ひと》に恥を掻かせなくってもよかろう。それとも原君が食っちまうまで待ってると、紳士の体面に関わるとでも云うのか」
原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを肉叉《フォーク》で突き差した手を止《や》めた。
「どうぞお構いなく」
津田が軽く会釈《えしゃく》を返して、いよいよ立ち上がろうとした時、小林はほとんど独りごとのように云った。
「いったいこの席を何と思ってるんだろう。送別会と号して他を呼んでおきながら、肝心《かんじん》のお客さんを残して、先へ帰っちまうなんて、侮辱を与える奴《やつ》が世の中にいるんだから厭《いや》になるな」
「そんなつもりじゃないよ」
「つもりでなければ、もう少《すこし》いろよ」
「少し用があるんだ」
「こっちにも少し用があるんだ」
「絵なら御免だ」
「絵も無理に買えとは云わないよ。吝《けち》な事を云うな」
「じゃ早くその用を片づけてくれ」
「立ってちゃ駄目だ。紳士らしく坐《すわ》らなくっちゃ」
仕方なしにまた腰をおろした津田は、袂《たもと》から煙草を出して火を点《つ》けた。ふと見ると、灰皿は敷島の残骸《ざんがい》でもういっぱいになっていた。今夜の記念としてこれほど適当なものはないという気が、偶然津田の頭に浮かんだ。これから呑《の》もうとする一本も、三分|経《た》つか経たないうちに、灰と煙と吸口だけに変形して、役にも立たない冷たさを皿の上にとどめるに過ぎないと思うと、彼は何となく厭な心持がした。
「何だい、その用事というのは。まさか無心じゃあるまいね、もう」
「だから吝な事を云うなと、先刻《さっき》から云ってるじゃないか」
小林は右の手で背広《せびろ》の右前を掴《つか》んで、左の手を隠袋《ポケット》の中へ入れた。彼は暗闇《くらやみ》で物を探《さぐ》るように、しばらく入れた手を、背広の裏側で動かしながら、その間|始終《しじゅう》眼を津田の顔へぴったり付けていた。すると急に突飛な光景《シーン》が、津田の頭の中に描き出された。同時に変な妄想《もうぞう》が、今呑んでいる煙草の煙のように、淡く彼の心を掠《かす》めて過ぎた。
「此奴《こいつ》は懐《ふところ》から短銃《ピストル》を出すんじゃないだろうか。そうしてそれをおれの鼻の先へ突きつけるつもりじゃないかしら」
芝居じみた一刹那《いっせつな》が彼の予感を微《かす》かに揺《ゆす》ぶった時、彼の神経の末梢《まっしょう》は、眼に見えない風に弄《なぶ》られる細い小枝のように顫動《せんどう》した。それと共に、妄《みだ》りに自分で拵《こしら》えたこの一場《いちじょう》の架空劇をよそ目に見て、その荒誕《こうたん》を冷笑《せせらわら》う理智の力が、もう彼の中心に働らいていた。
「何を探しているんだ」
「いやいろいろなものがいっしょに入ってるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、滅多《めった》に君の前へは出されないんだ」
「間違えて先刻《さっき》放《ほう》り込んだ札《さつ》でも出すと、厄介だろう」
「なに札は大丈夫だ。ほかの紙片《かみぎれ》と違って活きてるから。こうやって、手で障《さわ》って見るとすぐ分るよ。隠袋《ポケット》の中で、ぴちぴち跳《は》ねてる」
小林は減らず口を利《き》きながら、わざと空《むな》しい手を出した。
「おやないぞ。変だな」
彼は左胸部にある表隠袋《おもてかくし》へ再び右の手を突き込んだ。しかしそこから彼の撮《つま》み出したものは皺《しわ》だらけになった薄汚ない手帛《ハンケチ》だけであった。
「何だ手品《てづま》でも使う気なのか、その手帛で」
小林は津田の言葉を耳にもかけなかった。真面目《まじめ》な顔をして、立ち上りながら、両手で腰の左右を同時に叩《たた》いた後で、いきなり云った。
「うんここにあった」
彼の洋袴《ズボン》の隠袋から引き摺《ず》り出したものは、一通の手紙であった。
「実は此奴《こいつ》を君に読ませたいんだ。それももう当分君に会う機会がないから、今夜に限るんだ。僕と原君と話している間に、ちょっと読んでくれ。何|訳《わけ》ゃないやね、少し長いけれども」
封書を受取った津田の手は、ほとんど器械的に動いた。
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