彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。情実に絡《から》まれた窮屈な云い廻し方を打ちやって、面《めん》と向き合ったままお秀に相見《しょうけん》しようとした。その代り言葉はどうしても抽象的にならなければならなかった。それでも論戦の刺撃で、事実の面影《おもかげ》を突きとめる方が、まだましだと彼女は思った。
「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」
この質問を基点として歩を進めにかかった時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つももっていなかった。書物と雑誌から受けた彼女の知識は、ただ一般恋愛に関するだけで、毫《ごう》もこの特殊な場合に利用するに足らなかった。腹に何の貯《たくわ》えもない彼女は、考える風をした。そうして正直に答えた。
「そりゃちょっと解らないわ」
お延は気の毒になった。「この人は生きた研究の材料として、堀という夫をすでにもっているではないか。その夫の婦人に対する態度も、朝夕《あさゆう》傍《そば》にいて、見ているではないか」。お延がこう思う途端に、第二句がお秀の口から落ちた。
「解《わか》らないはずじゃありませんか。こっちが女なんですもの」
お延はこれも愚答だと思った。もしお秀のありのままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減が想《おも》いやられた。しかしお延はすぐこの愚答を活かしにかかった。
「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」
「延子さんにはそれができないの?」と云われた時、お延はおやと思った。
「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」
「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。お延は直《ただ》ちに相手の言葉を繰り返した。
「大丈夫※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
疑問とも間投詞とも片のつかないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。
「大丈夫よ」
お秀も再び同じ言葉を繰り返した。その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀の唇《くちびる》のあたりに認めた。しかし彼女はすぐそれを切って捨てた。
「そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの」
「じゃ延子さんはどうなの。やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの」
「嘘《うそ》よ。そりゃあなたの事よ」
お秀は急に応じなくなった。お延も獲物のない同じ脈をそれ以上掘る徒労を省《はぶ》いた。
「いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう」
「それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ」
お延は叩きつけられた後《あと》で、自分もお秀と同じような愚問をかけた事に気がついた。
「だけど兄妹《きょうだい》としての津田は、あたしより秀子さんの方によく解ってるでしょう」
「ええ、だけど、いくら解ってたって、延子さんの参考にゃならないわ」
「参考に無論なるのよ。しかしその事ならあたしだって疾《と》うから知ってるわ」
お延の鎌《かま》は際《きわ》どいところで投げかけられた。お秀ははたしてかかった。
「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」
「大丈夫だけれども危険《あぶな》いのよ。どうしても秀子さんから詳しい話しを聴《き》かしていただかないと」
「あら、あたし何にも知らないわ」
こういったお秀は急に赧《あか》くなった。それが何の羞恥《しゅうち》のために起ったのかは、いくら緊張したお延の神経でも揣摩《しま》できなかった。しかも彼女はこの訪問の最初に、同じ現象から受けた初度《しょど》の記憶をまだ忘れずにいた。吉川夫人の名前を点じた時に見たその薄赧《うすあか》い顔と、今彼女の面前に再現したこの赤面の間にどんな関係があるのか、それはいくら物の異同を嗅《か》ぎ分ける事に妙を得た彼女にも見当がつかなかった。彼女はこの場合無理にも二つのものを繋《つな》いでみたくってたまらなかった。けれどもそれを繋ぎ合せる綱は、どこをどう探《さが》したって、金輪際《こんりんざい》出て来っこなかった。お延にとって最も不幸な点は、現在の自分の力に余るこの二つのものの間に、きっと或る聯絡《れんらく》が存在しているに相違ないという推測《すいそく》であった。そうしてその聯絡が、今の彼女にとって、すこぶる重大な意味をもっているに相違ないという一種の予覚であった。自然彼女はそこをもっと突ッついて見るよりほかに仕方がなかった。
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