しばらくして津田はまた顔を上げた。
「何だか話が議論のようになってしまいましたね。僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに」
清子は答えた。
「私にもそんな気はちっともなかったの。つい自然そこへ持って行かれてしまったんだから故意《こい》じゃないのよ」
「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまりあなたを問いつめたからなんでしょう」
「まあそうね」
清子はまた微笑した。津田はその微笑のうちに、例の通りの余裕を認めた時、我慢しきれなくなった。
「じゃ問答ついでに、もう一つ答えてくれませんか」
「ええ何なりと」
清子はあらゆる津田の質問に応ずる準備を整えている人のような答えぶりをした。それが質問をかけない前に、少なからず彼を失望させた。
「何もかももう忘れているんだ、この人は」
こう思った彼は、同時にそれがまた清子の本来の特色である事にも気がついた。彼は駄目《だめ》を押すような心持になって訊いた。
「しかし昨夕《ゆうべ》階子段《はしごだん》の上で、あなたは蒼《あお》くなったじゃありませんか」
「なったでしょう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、あなたが蒼くなったとおっしゃれば、それに違ないわ」
「へえ、するとあなたの眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐《うそつき》でもなかったんですね、ありがたい。僕の認めた事実をあなたも承認して下さるんですね」
「承認しなくっても、実際蒼くなったら仕方がないわ、あなた」
「そう。――それから硬《かた》くなりましたね」
「ええ、硬くなったのは自分にも分っていましたわ。もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの」
「つまり驚ろいたんでしょう」
「ええずいぶん吃驚《びっくり》したわ」
「それで」と云いかけた津田は、俯向加減《うつむきかげん》になって鄭寧《ていねい》に林檎《りんご》の皮を剥《む》いている清子の手先を眺めた。滴《したた》るように色づいた皮が、ナイフの刃を洩《も》れながら、ぐるぐると剥《む》けて落ちる後に、水気の多そうな薄蒼《うすあお》い肉がしだいに現われて来る変化は彼に一年以上|経《た》った昔を憶《おも》い起させた。
「あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、こういう林檎《りんご》を剥《む》いてくれたんだっけ」
ナイフの持ち方、指の運び方、両肘《りょうひじ》を膝《ひざ》とすれすれにして、長い袂《たもと》を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違うところのある点に津田は気がついた。それは彼女の指を飾る美くしい二個《ふたつ》の宝石であった。もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭どく遮《さえ》ぎるものはなかった。柔婉《しなやか》に動く彼女の手先を見つめている彼の眼は、当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、燦然《さんぜん》たる警戒の閃《ひら》めきを認めなければならなかった。
彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。しかし今朝《けさ》下女が結《い》ってやったというその髪は通例の庇《ひさし》であった。何の奇も認められない黒い光沢《つや》が、櫛《くし》の歯を入れた痕《あと》を、行儀正しく竪《たて》に残しているだけであった。
津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。
「それで僕の訊《き》きたいのはですね――」
清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。
「昨夕《ゆうべ》そんなに驚ろいたあなたが、今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう」
清子は俯向《うつむ》いたまま答えた。
「なぜ」
「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」
清子はやっぱり津田を見ずに答えた。
「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」
「説明はそれだけなんですか」
「ええそれだけよ」
もし芝居をする気なら、津田はここで一つ溜息《ためいき》を吐《つ》くところであった。けれども彼には押し切ってそれをやる勇気がなかった。この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼をどことなく抑《おさ》えつけた。
「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」
清子はこの問をかけるや否や顔を上げた。
「あらどうしてそんな事を御承知なの」
「ちゃんと知ってるんです」
清子はちょっと津田を見た眼をすぐ下へ落した。そうして綺麗《きれい》に剥いた林檎に刃を入れながら答えた。
「なるほどあなたは天眼通《てんがんつう》でなくって天鼻通《てんびつう》ね。実際よく利《き》くのね」
冗談《じょうだん》とも諷刺《ふうし》とも真面目《まじめ》とも片のつかないこの一言《いちごん》の前に、津田は退避《たじろ》いだ。
清子はようやく剥き終った林檎を津田の前へ押しやった。
「あなたいかが」
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