2008年11月12日水曜日

五十九

 お時の御給仕で朝食兼帯《あさめしけんたい》の午《ひる》の膳《ぜん》に着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。津田の不在から起るこの変化が、女王《クイーン》らしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反して貪《むさ》ぼり得たこの自由が、いつもよりはかえって彼女を囚《とら》えた。身体《からだ》のゆっくりした割合に、心の落ちつけなかった彼女は、お時に向って云った。
「旦那様《だんなさま》がいらっしゃらないと何だか変ね」
「へえ、御淋《おさむ》しゅうございます」
 お延はまだ云い足りなかった。
「こんな寝坊をしたのは始めてね」
「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、宜《よろ》しゅうございましょう」
「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」
「誰がでございます」
「お前がさ」
「飛んでもない」
 お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味に応《こた》えた。彼女はすぐ黙ってしまった。
 三十分ほど経《た》って、お時の沓脱《くつぬぎ》に揃《そろ》えたよそゆきの下駄《げた》を穿《は》いてまた表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女を顧《かえり》みた。
「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」
「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」
 お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。
「あんなに遅くはならないつもりだがね」
 たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。
「なるたけ早く帰って来て上げるよ」
 こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。
 岡本の住居《すまい》は藤井の家とほぼ同じ見当《けんとう》にあるので、途中までは例の川沿《かわぞい》の電車を利用する事ができた。終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、そこに掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。その通りは二三日《にさんち》前の晩、酒場《バー》を出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来る縺《もつ》れ合《あ》った感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼らとは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父《おじ》の宅《うち》へ行くには是非共|上《のぼ》らなければならない細長い坂へかかった。すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。
「昨日《さくじつ》は」
「どこへ行くの」
「お稽古《けいこ》」
 去年女学校を卒業したこの従妹《いとこ》は、余暇《ひま》に任せていろいろなものを習っていた。ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。
「何のお稽古? トーダンス?」
 彼らはこんな楽屋落《がくやおち》の笑談《じょうだん》をいうほど親しい間柄《あいだがら》であった。しかしお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、肝心《かんじん》の当人には、いっこう諷刺《ふうし》としての音響を伝えずにすむらしかった。
「まさか」
 彼女はただこう云って機嫌《きげん》よく笑った。そうして彼女の笑は、いかに鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。けれども彼女はついにどこへ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。
「冷かすから厭《いや》よ」
「また何か始めたの」
「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」
 稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅では隠れない事実であった。最初妹からつけられて、たちまち家族のうちに伝播《でんぱん》したこの悪口《わるくち》は、近頃彼女自身によって平気に使用されていた。
「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」
 軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とを搗《つ》き交《ま》ぜたその人に対するいつもの感じが起った。

六十

 岡本の邸宅《やしき》へ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前に見出《みいだ》した。羽織も着ずに、兵児帯《へこおび》をだらりと下げて、その結び目の所に、後《うしろ》へ廻した両手を重ねた彼は、傍《そば》で鍬《くわ》を動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。
「来たね。今庭いじりをやってるところだ」
 植木屋の横には、大きな通草《あけび》の蔓《つる》が巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。
「そいつを今その庭の入口の門の上へ這《は》わせようというんだ。ちょっと好いだろう」
 お延は網代組《あじろぐみ》の竹垣の中程にあるその茅門《かやもん》を支えている釿《ちょうな》なぐりの柱と丸太の桁《けた》を見較べた。
「へえ。あの袖垣《そでがき》の所にあったのを抜いて来たの」
「うんその代りあすこへは玉縁《たまぶち》をつけた目関垣《めせきがき》を拵《こしら》えたよ」
 近頃|身体《からだ》に暇ができて、自分の意匠《いしょう》通り住居《すまい》を新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急に殖《ふ》えていた。言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云って応答《あしら》っているよりほかに仕方がなかった。
「食後の運動には好いわね。お腹《なか》が空《す》いて」
「笑談《じょうだん》じゃない、叔父さんはまだ午飯前《ひるめしまえ》なんだ」
 お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「住《すみ》、住」と大きな声で叔母を呼んだ。
「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」
「だから先刻《さっき》みんなといっしょに召上《めしや》がれば好いのに」
「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一|物《もの》に区切《くぎり》のあるという事をあなたは御承知ですか」
 自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶《あいさつ》も相変らずであった。久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対《いっつい》の老夫婦と、結婚してからまだ一年と経《た》たない、云わば新生活の門出《かどで》にある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。自分達も長《なが》の月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終《すえしじゅう》まで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。しかし未来の自分も、この叔母のように膏気《あぶらけ》が抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来に横《よこた》わる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢《つや》を持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真《しん》に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。
 そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に湧《わ》いているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前に据《す》えられた膳《ぜん》に向って胡坐《あぐら》を掻《か》きながら、彼女を見た。
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」
 お延はすぐ答えた。
「久しぶりにお給仕でもしましょう」
 飯櫃《おはち》があいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。
「御給仕をしたくったって、麺麭《パン》だからできないよ」
 下女が皿の上に狐色に焦《こ》げたトーストを持って来た。
「お延、叔父さんは情《なさ》けない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想《かわいそう》だろう」
 糖尿病《とうにょうびょう》の叔父は既定の分量以外に澱粉質《でんぷんしつ》を摂取《せっしゅ》する事を主治医から厳禁されてしまったのである。
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」
 叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が生《なま》のままで供えられた。
 むくむくと肥え太った叔父の、わざとする情《なさけ》なさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。
「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」
 叔父は叔母を顧《かえり》みた。
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」

六十一

 小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で出没《しゅつぼつ》するこの叔父の特色を他人よりよく承知していた。
 肥った身体《からだ》に釣り合わない神経質の彼には、時々自分の室《へや》に入ったぎり、半日ぐらい黙って口を利《き》かずにいる癖がある代りに、他《ひと》の顔さえ見ると、また何かしらしゃべらないでは片時《かたとき》もいられないといった気作《きさく》な風があった。それが元気のやり場所に困るからというよりも、なるべく相手を不愉快にしたくないという対人的な想《おも》いやりや、または客を前に置いて、ただのつそつとしている自分の手持無沙汰《てもちぶさた》を避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心がけから来る一種の興味的中心があった。彼の成効《せいこう》に少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上|極《きわ》めて有利な彼のこの話術は、その所有者の天から稟《う》けた諧謔趣味《かいぎゃくしゅみ》のために、一層|派出《はで》な光彩を放つ事がしばしばあった。そうしてそれが子供の時分から彼の傍《そば》にいたお延の口に、いつの間にか乗り移ってしまった。機嫌《きげん》のいい時に、彼を向うへ廻して軽口《かるくち》の吐《つ》き競《くら》をやるくらいは、今の彼女にとって何の努力も要《い》らない第二の天性のようなものであった。しかし津田に嫁《とつ》いでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。ところが最初|慎《つつし》みのために控えた悪口《わるくち》は、二カ月経っても、三カ月経ってもなかなか出て来なかった。彼女はついにこの点において、岡本にいた時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。彼女は物足らなかった。同時に夫を欺《あざ》むいているような気がしてならなかった。たまに来て、もとに変らない叔父の様子を見ると、そこに昔《むか》しの自由を憶《おも》い出させる或物があった。彼女は生豆腐《なまどうふ》を前に、胡坐《あぐら》を掻《か》いている剽軽《ひょうきん》な彼の顔を、過去の記念のように懐《なつ》かし気に眺めた。
「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込《しこみ》じゃないの。津田に教わった覚《おぼえ》なんか、ありゃしないわ」
「ふん、そうでもあるめえ」
 わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくに忌《い》み嫌《きら》う叔母の方を見た。傍《はた》から注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母は素知《そし》らぬ顔をして取り合わなかった。すると目標《あて》が外《はず》れた人のように叔父はまたお延に向った。
「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」
 お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」
「何がよ」
「何がよって、そんなに白《しら》ばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」
「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を真面目《まじめ》くさってお訊《き》きになるの」
「少しこっちにも料簡《りょうけん》があるんだ、返答次第では」
「おお怖《こわ》い事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」
「本当にかい」
「ええ。ずいぶん叔父さんも苦呶《くど》いのね」
「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」
 こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、頷《あご》でしゃくって見せた。
「この叔母さんなら、ちょうどお誂《あつ》らえ向《むき》かも知れないがね」
 淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫《な》でた。彼女は急に悲しい気分に囚《とら》えられた自分を見て驚ろいた。
「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」
 津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分《からかいはんぶん》の叔父の笑談《じょうだん》を、ただ座興から来た出鱈目《でたらめ》として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙《すき》があり過ぎた。と云って、その隙を飽《あ》くまで取《と》り繕《つく》ろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由をもっていなかった。もう少しで涙が眼の中に溜《た》まろうとしたところを、彼女は瞬《またた》きでごまかした。
「いくらお誂《あつ》らえ向《むき》でも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」
 年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した光沢《つや》のある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云わなかった。けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。彼女はただ面白そうに声を出して笑った。

六十二

 親身《しんみ》の叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛《かわい》がられているという信念を常にもっていた。洒落《しゃらく》でありながら神経質に生れついた彼の気合《きあい》をよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分|違《たが》わず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでも年齢《とし》の若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作《しょさ》を眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。
 いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成効《せいこう》するに違ないと信じていた。津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間に熟《こな》しつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。彼女の愛は津田の上にあった。しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間に注《そそ》がれた。こんな時に、叔父なら嬉《うれ》しがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。すると自然の勢いが彼女にそれを逐一《ちくいち》叔父に話してしまえと命令した。その命令に背《そむ》くほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。
 こうして叔父夫婦を欺《あざ》むいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念《けねん》もなく彼女のために騙《だま》されているという自信があった。同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。有体《ありてい》に見透《みすか》した叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。それが二人の間に横《よこた》わる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。粗放のようで一面に緻密《ちみつ》な、無頓着《むとんじゃく》のようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田を嫌《きら》っていたらしかった。「お前はああいう人が好きなのかね」と訊《き》かれた裏側に、「じゃおれのようなものは嫌《きらい》だったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうその気下味《きまず》い関《せき》を通り越していた。
「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮は要《い》らないから」と親切に云ってくれた。
 お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分に惚《ほ》れなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」
 不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を精一杯《せいいっぱい》愛し得るという信念があった。同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。また叔父の例の悪口《わるくち》が始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。そうして、この悪口はつまり嫉妬《しっと》から来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。叔母も「自分の若い時の己惚《おのぼれ》は、もう忘れているんだからね」と云って、彼女に相槌《あいづち》を打ってくれた。……
 叔父の前に坐ったお延は自分の後《うしろ》にあるこんな過去を憶《おも》い出さない訳に行かなかった。すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の笑談《じょうだん》のうちに、何か真面目《まじめ》な意味があるのではなかろうかという気さえ起った。
「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」
 お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。

六十三

 感傷的の気分を笑に紛《まぎ》らした彼女は、その苦痛から逃《のが》れるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。
「昨日《きのう》の事は全体どういう意味なの」
 彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。
「お前はどう思う」
 特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような眼遣《めづか》いをして彼女をじっと見た。
「解らないわ。藪《やぶ》から棒にそんな事|訊《き》いたって。ねえ叔母さん」
 叔母はにやりと笑った。
「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気が利《き》いてるからっておっしゃるんだよ」
 お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論|朧気《おぼろげ》ながらある臆測《おくそく》があった。けれども強《し》いられないのに、悧巧《りこう》ぶってそれを口外するほど、彼女の教育は蓮葉《はすは》でなかった。
「あたしにだって解りっこないわ」
「まああてて御覧。たいてい見当《けんとう》はつくだろう」
 どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の気色《けしき》を見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを云った。
「見合じゃなくって」
「どうして。――お前にはそう見えるかね」
 お延の推測を首肯《うけが》う前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。しまいに彼は大きな声を出して笑った。
「あたった、あたった。やっぱりお前の方が住《すみ》より悧巧だね」
 こんな事で、二人の間《ま》に優劣をつける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にして冷評《ひやか》した。
「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」
「お前も御賞《おほめ》にあずかったって、あんまり嬉《うれ》しくないだろう」
「ええちっともありがたかないわ」
 お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の斡旋《あっせん》ぶりがまた描《えが》き出《いだ》された。
「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが始終《しじゅう》継子さんと、それからあの三好さんて方《かた》を、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」
「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事|夥《おびただ》しいんだからな。引き立てようとすれば、かえって引き下がるだけで、まるで紙袋《かんぶくろ》を被《かぶ》った猫見たいだね。そこへ行くと、お延のようなのはどうしても得《とく》だよ。少くとも当世向《とうせいむき》だ」
「厭《いや》にしゃあしゃあしているからでしょう。何だか賞《ほ》められてるんだか、悪く云われてるんだか分らないわね。あたし継子さんのようなおとなしい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」
 こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ不成効《ふせいこう》に終った、昨夕《ゆうべ》の会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。
「何でまたあたしがあの席に必要だったの」
「お前は継子の従姉《いとこ》じゃないか」
 ただ親類だからというのが唯一《ゆいいつ》の理由だとすれば、お延のほかにも出席しなければならない人がまだたくさんあった。その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。
「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」
「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」
 叔父の目的中には、昨夕《ゆうべ》の機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫婦に接近させてやろうという好意が含まれていたのである。それを叔父の口から判切《はっきり》聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父の気性《きしょう》がそこに現われているように思って、暗《あん》に彼の親切を感謝すると共に、そんならなぜあの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けてくれなかったのかと恨《うら》んだ。二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果はかえって近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。しかしその後《あと》から、吉川夫人と自分との間に横《よこた》わる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来ても畢竟《ひっきょう》どうする事もできないのだから仕方がないという、嘆息を交えた寛恕《かんじょ》の念も起って来た。

六十四

 お延はその問題をそこへ放《ほう》り出《だ》したまま、まだ自分の腑《ふ》に落ちずに残っている要点を片づけようとした。
「なるほどそういう意味|合《あい》だったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。だけどまだほかに何かあるんでしょう」
「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ価値《ねうち》は充分あるだろう」
「ええ、有るには有るわ」
 お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後の一物《いちもつ》を胸に蔵《しま》い込《こ》んでいた。
「実はお前にお婿さんの眼利《めきき》をして貰《もら》おうと思ったのさ。お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか」
 叔父の平生から推して、お延はどこまでが真面目《まじめ》な相談なのか、ちょっと判断に迷った。
「まあ大変な御役目を承《うけたま》わったのね。光栄の至りだ事」
 こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を抑《おさ》えた。
「あたしのようなものが眼利《めきき》をするなんて、少し生意気よ。それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」
「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だから皆《みん》なが訊《き》きたがるんだよ」
「冷評《ひやか》しちゃ厭《いや》よ」
 お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分に媚《こ》びる一種の快感を味わった。それは自分が実際|他《ひと》にそう思われているらしいという把捉《はそく》から来る得意にほかならなかった。けれどもそれは同時に彼女を失意にする覿面《てきめん》の事実で破壊されべき性質のものであった。彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後|今日《こんにち》に至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い疳違《かんちがい》の痕迹《こんせき》で、すでにそこここ汚《よご》れていた。畢竟《ひっきょう》夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父に煽《あお》られてすぐ図に乗るほど若くもなかった。
「人間はよく交際《つきあ》って見なければ実際解らないものよ、叔父さん」
「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」
「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」
「そりゃ男の云《い》い草《ぐさ》だろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。またよく旨《うま》い事を云うじゃないか。それを云って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」
「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」
 叔母はいつものようにお延に加勢《かせい》しなかった。さればと云って、叔父の味方にもならなかった。彼女の予言を強《し》いる気色《けしき》を見せない代りに、叔父の悪強《わるじ》いもとめなかった。始めて嫁にやる可愛《かわい》い長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むける値打《ねうち》は充分あるといった風も見えた。お延は当《あた》り障《さわ》りのない事を一口二口云っておくよりほかに仕方がなかった。
「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」
 その後《あと》を待っていた叔父は、お延が何にも云わないので、また催促するように訊《き》いた。
「それっきりかね」
「だって、あたしあの方《かた》の一軒《いっけん》置いてお隣へ坐らせられて、ろくろくお顔も拝見しなかったんですもの」
「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言《ひとこと》で、ずばりと向うの急所へあたるような……」
「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」
「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」
「云えないわ」
「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」
「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚が擦《す》り減《へ》らされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって鈍覚《どんかく》だけよ」

六十五

 口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。
 彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の好悪《こうお》を改めるはずがないという事もよく承知していた。だから睦《むつま》しそうな津田と自分とを、彼は始終《しじゅう》不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。人間を見損《みそく》なったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳《ようえい》するために、彼の心に下層にいつも沈澱《ちんでん》しているらしかった。
「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに執濃《しつこ》く聴こうとするのだろう」
 お延は解《げ》しかねた。すでに自分の夫を見損なったものとして、暗《あん》に叔父から目指《めざ》されているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。彼はお延を措《お》いて叔母の方を向いた。
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり旦那様《だんなさま》の感化かな。不思議なもんだな」
「あなたがあんまり苛《いじ》めるからですよ。さあ云え、さあ云えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」
 叔母の態度は、叔父を窘《たしな》めるよりもむしろお延を庇護《かば》う方に傾いていた。しかしそれを嬉《うれ》しがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、いっぱいになり過ぎていた。
「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」
 お延は自分で自分の夫を択《えら》んだ当時の事を憶《おも》い起さない訳に行かなかった。津田を見出《みいだ》した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼の許《もと》に嫁《とつ》ぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。また責任者であった。自分の料簡《りょうけん》をよそにして、他人の考えなどを頼りたがった覚《おぼえ》はいまだかつてなかった。
「いったい継子さんは何とおっしゃるの」
「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」
「肝心《かんじん》の当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」
「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」
「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」
「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」
 そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸に横《よこた》わる深い疑問であった。「自分の結婚ですらこうだのに」という論理《ロジック》がすぐ彼女の頭に閃《ひら》めいた。「自分の結婚だって畢竟《ひっきょう》は似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事のできなかった彼女は、一直線に自分の眼をつけた方ばかり見た。馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。なんという気楽な人だろうとも思った。
「叔父さん」と呼びかけた彼女は、呆《あき》れたように細い眼を強く張って彼を見た。
「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」
「だってあたしが立ち合えばどうするの」
「とにかく継《つぎ》が是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽど悧巧《りこう》だと思ってるんだ。そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後からいろいろ云ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」
「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」
「ところがまたそれは厭《いや》だというんだ。是非黙っててくれというんだ」
「なぜでしょう」
 お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父は遮《さえぎ》った。
「なにきまりが悪いばかりじゃない。成心《せいしん》があっちゃ、好い批評ができないというのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」
 お延は初めて叔父に強《し》いられる意味を理解した。